サイレンス(ジョン・ケージ著)
本書は水声社1996年刊行のもの。
原書は1961年に刊行されている、そして、この翻訳が刊行されたときにケージはもはや存在していなかった。
本書を発見したのは数日前、漫画が積んであったところを「もう読むこともないだろう」と資源ごみの日に処分したところその下から現れた。
2006年ころからExcelで読んだ本を記録しているので調べたがそこにはなかった。
以前の私は果たしてこの本を一読したのか、それは定かではない、でも、なんとなく読み始めた。
彼が当時やろうとした実験音楽、現代音楽への電子機器を利用した部分(テクノロジーの部分)は、現在では凄く簡単にしかも安価に実現できるものだ。
しかし、本書を読んでわかることだが、その音楽を創出する思考の部分は、彼自身の独特なもので、その強力な意志(思考)がなければ存在できないものだと思うのだ。
確かに音楽にも流行りや廃りはあるが、ある時代を成した人の作品の裏には強力な「何か(彼の場合はサイレンスかもしれない」があるということだ。
ちなみに、1961年の作品が1996年に翻訳されたことについて、相当な時間差があるのだが、本書の構成をみると「良く翻訳できたものだ」と感心してしまう、その翻訳の労には頭が下がる思いだ(相当無理をして日本語化しているところもあるだろう)。
この私が生まれた年に出た本作が、今読んでも面白いということはまったくの驚きだ。
鈴木大拙(西田幾多郎と同郷だよね)やらバックミンスター・フラー(そしてジョン・ケージ)の名前が古さや時代を感じさせるものであることは事実だが、そこに書かれたこと、引用されて語られる事が面白ければそれで充分楽しめるものだということなんだと思う。
ただ本編の「われわれはどこへ行くのか、そして何をするのか」は読み切れなかった、一応文章をなぞっただけで終わらせた、残念ながら私には能力的に無理だ。