110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

<中間者>の哲学(市川浩著)

 このサイトで市川浩氏の著作を少しでも紹介できるのはとても嬉しいことだ。
 ただ、既に故人となってしまったことが悔やまれる。

 さて、本書は1990年に刊行された著作だが、市川氏の「身体論」を核にする様々な論点が考察される。
 本書の題名にある「中間者」は、様々な、現実的な世界の間に存在する人間を指し、また、市川氏の身体論でも述べているように、複雑な、多面性を帯びた、仲介者(中間者)である存在は、例えば、善悪、天国地獄などのような、単純な2項対立では表せない事を示す。
 また、「自者でありまた他者である」ように、少なくとも2面性を持つ人間は、全体(抽象的な意味での神)にはなりえず、部分としてその存在の矛盾に悩むこと(多分、そういう風に自発的に悩めばだが)があるという事になる。
 本書を読んでいて、例えば、近代の哲学は、これも近代に一斉風靡した、T型フォードの製造ラインの様に、非常に目的的で洗練されている様に思う、しかし、その目的である「T型フォード」の位置づけが、GMのデザイン戦略により、大衆の嗜好(目的性)が変えられてしまうと、その位置づけが急速に失われてしまうことを考えていた。
 そこには、哲学(思想)が、永遠や無限というものを参照しながら、そういう「モノ」になり得ない者(人間)の思索という、少し寂しい道理を感じてしまう。

 ドゥルーズは、現在を分裂病的な世の中だと言い、浅田彰氏も、スキゾ(分裂病)的だと、ドゥルーズの説を支持したと思うが、今頃になって、世の中は、そのとおり「分裂症的」だと思えるようになってきた。
 そして、その後ろにある、ニーチェの「ニヒリズム」に関して示唆も、何となく実感できる。
 (今回の参議院選挙など、分裂病的で虚無的(ニヒリズム)な選挙では無いのかと思ってしまう)

 そういう背景の一つである、ヒューマニズムや行過ぎた合理主義に対して、市川氏は身体論から派生した「中間者」という捕らえ方で、より複雑な現状を、悪く言ってしまえば「錯綜した」哲学を考えているように思う。
 そして、それには、非常に難しい課題があるのだろうが、私的には、現実的な考え方であるように思う。