110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

柳橋物語・むかしも今も(山本周五郎著)

 本書は新潮文庫版で読む。

 本を読んでいて泣くことは今までなかったのだが本書では泣いてしまった。
 そして、創作に入った著者は人間嫌いでそんなに実際の人間に降れているわけではないのに、何故このような作品が書けるのだろうか。
 それは、修行時代の蓄積なのか、著者の内面の世界が人を感動させてしまうものであったのか、そのからくりは分からない、しかし、よくできた作品だ。

 本編に収められた2つの作品はとても良くにている、どちらも誠実な主人公が誤解を受けて絶望に陥る、特に、柳橋物語の「おせん」には過酷な仕打ちが繰り替えされる。
 しかし、最後には、心の平安、すなわち幸福にたどりつく、必ずしも裕福ではないが、そういう境地に達する。
 それは、どんなにひどい状況に陥っても救いはあるのだという著者の応援の声が聞こえてくる。

 今、自分の両親、特に母親の支援をしているのだがここのところ自分の無力感に打ちのめされていた。
 それは、どんなに自分が彼らの手助けをしても、彼らがこれ以上良くなることはないのだということに気づいたからだ。
 端的には、母親は足が悪い、最初は杖をついていたが、何度か転んでしまった後、杖では歩けなくなった、そこで、歩行器というもの使い始めたのだが、最初は、喜んで使用していて一安心と思っていたが、それでも時間が立つと、その歩みが遅くなってきた、やはり、普通に歩くことができるということは、体の維持には大きな要素であるようだ。
 だから最近は、少しきつい調子で「歩くように、リハビリするように」言っのだが、リハビリは痛くなるから嫌だという風に敬遠してしまい、当初は目立って変化は無いようなのでたかをくくっていたが、半年、一年とたつうちにと目に見えて体力が落ちてきた。
 この先はどうなるのだろう?
 自分は、彼女の足の代わりをしてきたつもりなのだが、実は、単純にできないことの肩代わりをしていただけなのだ、本当の代わりとは、その衰弱を1分1秒でも抑えることであったのに・・・
 本当はつらくとも、手助けを(あまり)しないほうが良かったのではないか?
 そんなことを考えていた。

 そんなときにこの本を読んで、すこし救われた。
 自分には自分のできることをするしかないのだ、その評価は、今すぐには得られない、いや、ずっと得られない可能性の方が強い、それでも生きていくしかない。
 たぶん、そういう人たちがこの世の大半なのだ。

 表題の柳橋物語にある柳橋とは物語の最後出てくる新しい橋の名前だ、それが意味するものとは何だろうか?
 ・・・などと考えてみるのだ。