110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

父親が亡くなる

 以前「天敵」と称した父親が本日亡くなった。
 悲しいとかいう感覚は無い、時間が経てば沸いてくるものであろうか?

 母親、父親の老境の人生を自分の目で見ると、今はもう廃れたはずの実存主義の立場に至る。
 それまでは肩で風を切るような生活を歩んできたとしても、徐々に自分の意志に体が逆らうようになる、経験は積み重ねられ、自負心が強くなっても、今の新しい風潮にはそぐわず浮き上がってしまう。
 最後は、親族にしろ、他人の手にしろ、人の手を患わせなけらば生活できなくなり、もし若いときに健康であればあるだけその差異になやみ、自我というものの呪縛に囚われて、その矛盾の中で自己肯定しながら生きていかなければならないこと、その辛さは端で見ているだけでも辛いことだ。

 当然、幸せな老後や幸せな死もあるだろう。
 しかし、それは理屈よりもある意味宗教的な要素があるからではないだろうか?
 私の浅はかな頭ではそんなことしか思い浮かばない。

 日本も戦後、家制度の崩壊が進め、家制度を否定して来たことは事実だ(村制度なども同様だろう)。
 しかし、最後の段階になれば、やはりこの理性的でない制度が生きてくる様に思うのだ。
 確かに、介護施設、病院などはある、今回も父親は病院で亡くなったし母親はディサービスに行ってもらっている。
 しかし、最後の病院へ行くまでの間、そして老後の普段の生活には、何の手助けをしなくても寄り添う人が居ることが必要なのでは無いかと思うのだ。 
 血縁で無くても良い、近くの人がなんの理由もなく訪れることがごく普通なことなだけで、随分と生活が変わってくるのだと思う。
 それが、今は、頭を使って介護保険やらなにやらのシステムをうまく利用しなければならないことになった。
 精神面が衰えてきた老人にとってそういうシステムを評価するのは難しいことだし、いかに専門家が助言するにしても、何ヶ月に一度の訪問で本質をとらえられるとは思えない(経験的に、例えば若いアドバイサーがたくさんの事例を見てきたとしても、もし自身に介護の直接経験がなければ、それをどう評価すれば良いだろう?)。
 それならば、先ほどの話で身近に寄り添う人が居れば、その人は専門家ではなくとも長い付き合いの上で「何か」に気づくはずだ(いやでもね、あの人は最近転ぶことが多くなったとか)。
 
 以上は、私の勝手な想像だが老人の医療費負担が大きいなどと言っているが、これは、家族制度を否定したことが原因だと思う、現在でさえも介護費用として計上されていない家族の補助は大きいと思う。
 これが、さらに数十年経過して全く家族の概念のないものが介護する立場になったら?
 今以上に国の負担(そして責任)はさらに増加するだろう。

 介護について言えば、理屈を作る人は最低限で良い、とにかく欲しいのは直接手を下せる人だ。
 アドバイサーがいくら増えても介護負担は減らない、直接サポート出来る人が一人居ればそれだけ負担が減る。
 だから、この分野だけは直接担当者の待遇(給料など)がよくなければならないはずだが?
 末端の一人が実際の問題解決をしているわけだから。

 そう、介護は実存主義、個々の人間の問題なのだ。

 これは戯言かな。