110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

備忘録

同居母の死を2日後に発見した女性「私が悪いのでしょうか」
5/20(日) 7:00配信 NEWS ポストセブン
 親と同居はしているが折り合いが悪くほとんど顔を合わせていない、日中は仕事で親をひとりにしている、高齢の親を呼び寄せ同居を始めたが会話はあまりしていない…あなたの周りでこんな家庭に心当たりはないだろうか。今、こうした環境で孤立する高齢者が後を絶たない。さらには、同居をしているのに、孤立状態で異常死を遂げる「同居孤独死」も増えているという。「老後は家族と一緒が幸せ」という概念を考えなおす時が来ているのだろうか──福岡県遠賀郡の民生委員がこんなケースを紹介する。
「同居している息子に毎日のように罵倒され、逃げるように1人暮らしを始めたお爺さんもいます。もう80代と高齢なのに、長年住んだ自分の家から息子に追い出されるなんて、本当に不憫でした。半年後、お爺さんはアパートの部屋で一人で亡くなってしまったのですが、息子は病院にも来ず、葬儀も全てこちら任せ。最後まで顔を見せることはありませんでした」
 引き取り手のない遺体の葬儀を行う葬儀社「富士の華」の元木正一さんが言う。
「身内が亡くなったことを知らせても葬儀に参加せず、『お金は払うから勝手にやってくれ』と言う遺族は少なくありません。遺体の死亡届を提出するためのサインを求めても、『別の人に頼んでください。故人とは一切かかわりたくない』と言われることもあります。実際の葬儀の時には私たちが故人の骨を拾わせていただくのですが、寂しい気持ちになりますね」
 だが歴史を紐解けば、そうした感情も、近代になってから培われたものだという。古典エッセイストの大塚ひかりさんが話す。
「日本人全体が老人を敬うようになったのは、江戸時代に儒教思想が普及してからです。それ以前の古代や中世の老人は、基本的に社会のお荷物とされていました。息子が老母を背負って山に捨てに行く『姥捨て山伝説』は事実ではないともいわれていますが、全国津々浦々に残っているのは、それだけ共感を呼んだからでしょう」
大塚さんは、今起きている同居孤独死は、昔話『舌切り雀』の原話とされる鎌倉時代の物語で説明できると話す。
 あるところに3世代同居のお隣さん同士がいた。一方の家のおばあさんがけがをした雀を介抱していると、子や孫から「ボケたのか」と小馬鹿にされたが、やがて回復した雀がおばあさんに恩返しし、一家は大金持ちになる。
 悲惨なのは隣家のおばあさんだ。自分の子や孫から「隣のばあさんに比べてあんたは役立たずだ」と罵られた。悔しさのあまり、おばあさんは真似をして雀にけがをさせるが、怒った雀の逆襲に遭い殺されてしまう。
「小馬鹿にされたり罵られたりと、この物語は、鎌倉時代の老人の地位の低さがよく表れています。最初におばあさんが雀を介抱したのも、同居している子や孫から厄介者扱いされた孤独感からでしょう。近代になり教育が行き届いたことで、“老人蔑視”は落ち着きましたが、社会が不安定になり余裕がなくなった今、近代以前のように家庭内で苦しめられる老人がいても不思議ではありません」(大塚さん)
 実際、2002年の福島県の資料によると、福島県の自殺者の4割が老人で、そのほとんどが家族と同居していたというデータもある。これに対し、1人暮らしの老人の自殺の割合は全体の5%以下だった。
 一方で、親を孤独に追いやる家族もまた、深い苦悩を抱えている。昨年12月、同居する母(75才)が自宅で亡くなっているのを2日後に発見した都内在住のA子さん(48才・パート主婦)が語る。
「死因は心筋梗塞でした。母は足が悪かったので、一日自室で過ごすことも多く、ほとんど外出はしませんでした。食事は一日一食しか食べない人だったので、一緒に食卓で食べることもあまりなかった。
 亡くなった日の前後は、私もパートや地域の見守り会、子供のお弁当、夕食作りに塾の送迎など毎日バタバタで…。夫は単身赴任中で手伝ってくれる人もいないし、1日24時間あっても足りないくらい忙しいんです。高校生の子供は私立に通わせていて、教育費にお金もかかりますし、パートを辞めるわけにもいきません。死後2日も気付かなかったことは本当に申し訳ないと思っています。でも、顔を見ていないな、と思ったら亡くなっていたなんて…私が悪いのでしょうか」
※女性セブン2018年5月31日号
 自分たちの作り出した制度「社会」というものを理解することは難しいよね。
 本記事では「儒教思想」が出てくるが記者はそれが善いのか悪いのか言及していない。
 それは当たり前のことで、その善悪の判断は、記者自身をこの議論に参加してしまうことになる。
 難しいかな。
 善いとすれば、大変だけれども親の介護しようよということになり、悪ならば、親の面倒なんか見る必要ないよという立場になるよね。
 そうすると、直接の批判の対象になるので、まぁ、難しいことだけど皆さんはどう?みたいな論調にして、問題提起はしても、その議論に自分は参加しないという、利口な振る舞いをしているわけだ。
 少し前のブログに山本夏彦の「男女の仲(文春新書)」を取り上げたけれども、すでに大正時代には儒教的思想(忠孝)は廃れたと書いてある。
 さらに、動物は子育てするけれども、一人前になったら他者になる、みたいなことが書かれているけれども、いわゆる、儒教というのはそういう動物的なところからのひとつの離脱だよね。
 それが、社会制度としてのいわゆる福祉国家として国がその代わりをするという理想を掲げたけれども、どうも金が掛かるということで及び腰になってきたというのが現状のようだね。
 ちょっと、回り道をしたようだが、上の記事を引用するば、私たちは鎌倉時代のモラルに戻りつつあるということだ、しかも、国の各種施策を理由にあたかも理論的に面倒の見れない理由も言えるわけだ。
 でもまぁ、それは江戸時代と比べて、社会的な退化と言ってもよいのではないかな?
 社会的な退化なんて言いたくないよね、親を見放すつもりの人にとっては特にね。
 その総意が社会の意思だとすると、現状の不気味さがわかるよね。
 そうそう、介護保険制度などがあるから、国が老人の面倒を見るという考え方を以前はしていたけれども、国も、介護は家族でみるものという立場に思えるよ、現実はちょっと違うようだけれども…
 これは穿った見方と言われるかもしれないけれども、憲法改正案に「和」という言葉があるようだけれども、これって、そういう面倒なところを家族にあてがう都合の良い言葉とも思えるね。