南長崎の90年前
近くにこういう看板(地図)がありました。
地図の年号を見ると、1916年ですから、90年前は、このあたりに「牧場」があったのですね。
いやはや、なんとも時代の流れと言う奴は・・・
ちなみに、現在の「新目白通り」は、かつて「十三間道路」とよばれ、ドイツの「アウトバーン」とはレベルが違いますが、航空機の緊急着陸様に整備されたと聞いたことがあります。
この地図ともに、こんな解説が書かれています。
「当地の歴史
大正初期の当地は、陸軍獣医大尉籾山(もみやま)英次氏によって開設された牧場(約一万坪)の一角でした。その頃、豊島区にはまだ多くの牧場が存在し、東京の中心に牛乳を供給していましたが籾山牧場はなかでも有数の規模を誇っていました。
その後、昭和二年に小児牛乳蠶杭蟾場が竣工し、アメリカから輸入した低温殺菌機で均質牛乳の処理、販売を開始しましたが、昭和十五年明治製糖蠅侶藁鵑貌?蝓⊂赦遜充掲に東京牛乳衙島工場に変わりました。
一方、終戦間際の昭和二十年三月 本所、深川の大空襲(両国周辺)で明治乳業衙椽蟾場のチーズ設備が消失し工場が閉鎖されたため、昭和二十二年からこの工場を借り、明治乳業衙島工場としてアイスクリームの製造とプロセスチーズの製造を開始しました。そして、昭和二十八年からはプロセスチーズ専門工場として平成六年三月まで操業していました。・・・・」
現在は、工場跡は住居になっています。
歩いていると、こんな発見をすることもあるのですね。
地図の年号を見ると、1916年ですから、90年前は、このあたりに「牧場」があったのですね。
いやはや、なんとも時代の流れと言う奴は・・・
ちなみに、現在の「新目白通り」は、かつて「十三間道路」とよばれ、ドイツの「アウトバーン」とはレベルが違いますが、航空機の緊急着陸様に整備されたと聞いたことがあります。
この地図ともに、こんな解説が書かれています。
「当地の歴史
大正初期の当地は、陸軍獣医大尉籾山(もみやま)英次氏によって開設された牧場(約一万坪)の一角でした。その頃、豊島区にはまだ多くの牧場が存在し、東京の中心に牛乳を供給していましたが籾山牧場はなかでも有数の規模を誇っていました。
その後、昭和二年に小児牛乳蠶杭蟾場が竣工し、アメリカから輸入した低温殺菌機で均質牛乳の処理、販売を開始しましたが、昭和十五年明治製糖蠅侶藁鵑貌?蝓⊂赦遜充掲に東京牛乳衙島工場に変わりました。
一方、終戦間際の昭和二十年三月 本所、深川の大空襲(両国周辺)で明治乳業衙椽蟾場のチーズ設備が消失し工場が閉鎖されたため、昭和二十二年からこの工場を借り、明治乳業衙島工場としてアイスクリームの製造とプロセスチーズの製造を開始しました。そして、昭和二十八年からはプロセスチーズ専門工場として平成六年三月まで操業していました。・・・・」
現在は、工場跡は住居になっています。
歩いていると、こんな発見をすることもあるのですね。