110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

時間と自我(大森荘蔵著)

 主題は大きく2つある。

 まず、一つ目は、現在から見た場合の、過去や未来と言うものについて、自然科学で一般的(?)な、一次元的の数直線の上に移動する点としての「現在」があるとする事についての哲学的考察。
 もしくは、「時間」が流れるとはどういうことか?

 そして、もう一つは「自我」に対して「多我」について、どのようにして、それを各個人が認識するのかと言う問題について、そして、その命題が余りに「哲学的」に捕らえすぎるているのではないか?
 という疑問呈示が行われている。
 確かに、今まで考えた事がなかったが「現在」とは何時なのだろう?
 詭弁(的)と言われるかもしれないが「現在」を「認識」している時には、その「認識」は過去に過ぎ去っている。例えば、音楽のように、音が持続することで、ある意味を与えるものについて「現在」とは「過去」を含んでいる概念になるのだろうか?と思ってしまう。
 もし、そのようなことも含めて「現在」と言うのならば、「現在」には(時間的)な幅があるのだろうか、それとも、「直線」や「点」のように幅のないものだろうか?
 その場合は、例の「ゼウスのパラドックス」はどうなるのだろう?

 疑問は尽きないが、歩いている時に少しづつ考えてみよう。

 ちなみに、フッサールが「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」で著した問題点は、本書でも形を変えて受け継がれているように思う。