110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

哲学堂(その1)

 近所の名所?に『哲学堂』というのがある、当然「哲学」に関係があるのだろうと思っていたが、実際に行ってみた事がなかった。
 それが、ふらりと訪れて、画像を撮った時のものをまとめてみた。
 これが、意外と面白い文章だった、パソコンの「手書き変換」を駆使して、説明板をテキストに直した。
 この、哲学堂を造った「井上円了博士」は、河口慧海氏の「チベット旅行記」(これは、面白い本です)に名前が出てきた。
 河口氏は、潜入していた、鎖国の国チベットから、インドに脱出した。
 そのため、チベットで関係のあった現地の人たち(友人)が疑獄にあったのを、何とかしたいと思い(ことによると死刑になりますから)、当時インドにいた、井上氏を含む数人の日本人に相談を持ちかけて「なんとかする」という経緯が、この本には書いてあります(なんとかする「仕方」が、更に凄い)。
 その凄い「河口慧海」の恩師ですから、さらに凄かったことでしょう。


 その井上円了氏はこんな方です。
心を養う公園
 日本が世界へと開けゆく幕末に、井上円了先生は新潟県下の寺院に生まれました。やがて明治となり東京大学文学部哲学科に学び、変わりゆく時代のなかで、世界・宇宙・人間を見つめる新しい心の必要を感じました。その思いから、明治二十年に東洋大学の起源である「哲学館」を設立して、教育によって新しい考えを創り出す人を育てようとしました。
 さらに、全国の半数以上に及ぶ、それぞれの市町村にまで身を運び、世界と心のあり方を説き続けました。全国巡回講演というこの壮大な事業における、謝礼と人々の寄付のすべてを注いで、この公園を建設しました。先生は公共の利用を志し、人々の心を養う場として、ここを「哲学堂」と名づけました。
 先生の没後八十年を記念して、ここにその願いを記します。
 東洋大学
イメージ 1

さて、哲学堂の入り口の画像とそこにある説明文は以下の通りです。
哲学堂
 ここは井上円了(1858~1919)が、その独特な哲学思想をもとに、全財産を投じてつくった社会教育のための公園です。
 円了は、ここを”考える人-哲人-”を養成する道場としてつくりました。国内の建造物には、その目的にそった哲学的な名前がつけられています。円了自身はここを精神修養公園と考え、哲学宗の本山・道徳山哲学寺とも呼んだといわれています。
 これは当時、国民道徳の大本と考えられていた「教育勅語」の精神を普及徹底させるためには、学校教育のほかに社会教育や民間教育をおこす必要があり、また東洋の文明と日本の独立を維持するうえにも、仏教の再典が必要であるという円了の持論にもとづいたものでした。
 哲学堂は、円了の思想的遺産であり、彼の生きた時代の東洋と日本を物語る文化的遺産です。
 昭和五十七年二月 中野区教育委員会
イメージ 2

イメージ 3

あとは、画像と説明という形でご紹介しましょう。

①哲理門(妖怪門)
本堂の正門に当り左右の天狗と幽霊は、もと、この地に天狗松と幽霊梅があったことにちなむとともに、前者を物質界、後者を精神界に存する不可解の象徴とみなしたものである。
イメージ 4


②三學亭
我国古来の神、儒、佛、三道の中、最も著述の多い平田篤胤林羅山、釈擬然の三碩学を奉崇してある。
イメージ 5


③四聖堂
本堂に東洋哲学の孔子と釈迦、西洋哲学のソクラテスとカントの世界的四哲人を奉祀している。
イメージ 6


④宇宙館
哲学とは宇宙の真理を研究する学問であって、その講和または講習を開かんがために設けられた講義室である。
⑤皇國殿
本館(宇宙館)内部に横斜して位置する特殊構造の一室であり、国家社会の原理を講究する哲学堂として本殿が設けられたものである。
イメージ 7


⑥絶對城(図書館)
万巻の書物を読みつくすことは絶対の妙境に到達する道程であって、哲学界の万象はこの読書堂にありとしてこの名がある。
イメージ 8


⑦理外門
哲学を論究し尽した上は、必ず理外の理の存することを知るが故に、本堂の裏門に当る現地をかく名づけている。
イメージ 9


⑧理想橋
理想の彼岸に達する橋としてこの名がある。
イメージ 10


⑨六賢臺
ここに東洋的六賢人として、日本の聖徳太子菅原道真、中国の荘子朱子、印度の龍樹・迦毘羅を祀っている。
イメージ 11


⑩鬼神窟
髑髏庵から復活廊を通り、この屋に至れば精神は俗界を離れて霊化するとして、この名が与えられ、その内室を接神室、楼上を靈明閣と呼ぶ。
イメージ 12


長くなったので「その2」へ続きます。