110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

「人間は本来、40歳を過ぎたら余生」養老孟司さんが82歳で大病を経験してたどり着いた"境地"

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「人間は本来、40歳を過ぎたら余生」養老孟司さんが82歳で大病を経験してたどり着いた"境地"
日常を考え直すのは簡単ではないが、病気がその契機になればよい
PRESIDENT Online
養老 孟司
解剖学者、東京大学名誉教授

82歳で心筋梗塞を発症し、「病院嫌い」なのに病院のお世話になることになった解剖学者の養老孟司さん。現在は体調も回復し、平穏な日常を取り戻している。このたび1年数カ月ぶりに再診を決意した養老さんは「おかげさまで入院のことなどほぼ忘れてしまった。次に入院することがあるとすれば、もはや一巻の終わりということだろうと思う」という──。(第1回/全3回)
※本稿は、養老孟司、中川恵一『養老先生、再び病院へ行く』(エクスナレッジ)の一部を再編集したものです。

「自然現象」を敵視する人々
自分の病気の話を他人にするのは、趣味が良くない。最近はプライヴァシーがどうとかいうけれど、そういうことではありません。
私が大学勤めでいたころ、恩師の中井準之助先生が旧制一高の同窓会に出たことがあります。戻られてから、「話題と言えば、病気と孫と勲章だよ」と噛んで吐き出すように言われました。以来自分の病気の話には気を付けようと思ってきました。
病気は自然現象です。これを敵視する人は意外に多い。自然は敵でも味方でもなく中立なのに、都会人は得てして病を敵とみなす。人間社会に埋没している人ほど、その傾向が強いといえます。
例えば政治家。コロナが始まったころ、アメリカのトランプ大統領やブラジルのボルソナロ大統領が典型でした。2人ともおかげでコロナのしっぺ返しを食らいました。中国の習近平主席はゼロ・コロナ政策を採って物議をかもしています。中国は極めて古い都市文明ですから、自然を敵視し、克服しようとする傾向が強いのです。

病気は日常性を破壊する
病気は日常性を破壊します。日常は「有り難いもの」、つまり「滅多にないようなもの」ではありません。いわば「有り難くない」ものなので、破壊されない限り日常の有り難みは感じられません。
病気は日常を壊すことによって、人々にさまざまな洞察を与えます。親や子どもの死は人生の意義を深く考えさせますが、家族の病は家族の成員にいろいろなことを教えます。
現代人の日常は安定したものではありません。万事を徹底的に意識化していけば、世界は安定するはずだ、という誤った信念が人類を支配してきました。そうした世界が実現すれば、おそらく人は何も学ばなくなるでしょう。
学生のころ、一部の友人が結核で1年間、休学することがありました。退院してくると、以前より大人になっていたものです。日常性の変化は若者を成長させます。安全安心の社会は、人々の成長を止めようとしているのでしょう。

虫は生涯の友
私の虫の友人2人は小学生時代に結核で1年間休んでいます。その間に友人がいないので、虫を友としたのです。おかげで生涯の友人を得たことになります。
私自身も若年のころには、病気ばかりしていました。だから人との付き合いが苦手で、今もそうです。その代わり虫が生涯の友人になりました。
虫は私の人生にさまざまな慰めを与えてくれますが、積極的な手伝いをしてくれるわけではありません。そこから何かを得ようとするのは、当方の勝手であって、相手の都合ではないのです。
病気とは、人間の問題に自然が勝手に介入してくることです。それで人間のことしか考えていない政治家は錯乱するのでしょう。そんな予定はない、というわけです。

病気と死には人力及び難し…
病気と死はつきものですが、どちらも基本的には人力及び難し、です。秦の始皇帝が最後に不老不死の妙薬を探したのは、政治家としてむしろ当然かもしれません。
日常の病気には、そういう大げさな話は出てきません。ささやかな日常が壊れるだけの話です。この体験をどう生かすか、それがいちばん大切なことかもしれません。
現代社会、とくに都会の日常は、日常自体の継続がその日常を破壊するという、一種の自己矛盾の問題になってきています。だからSDGs(持続可能な開発目標)であり、COP(気候変動枠組条約締約国会議)なのでしょう。
日常を考え直すのは簡単ではありません。病気がその契機になれば幸いというべきです。

日本列島の「発作」は100年に一度起こるもの
最近私は、もっぱら2038年に想定されている南海トラフ地震を考えています。地震そのものが問題なのではありません。この日本では、こうした大災害はほぼ100年に一度起こります。日本列島の発作みたいなもので、問題はその発作の落ち着き方だといえます。日常が変化してしまいます。
大正デモクラシーや「狭いながらも楽しい我が家」とエノケンが歌ったマイ・ホーム主義といった雰囲気は関東大震災で消え、治安維持法の改正、軍人内閣、さらには戦争へと歴史は一直線に進みました。安政の江戸大地震東南海地震と並行し、やがて安政の大獄から倒幕運動へと進むことになりました。
日本社会は「空気で動く」といいますが、こうした天災の後は空気が一変するのでしょう。
2038年の後はどうでしょう。私は多分生きていないので、知ったことではない、というのが正直なところですが、いわゆる日本の将来はここにかかっていると思わざるを得ません。災害の後にどのような日常を想定するのか。

「ろくな患者ではない…」
『養老先生、再び病院へ行く』は前著の続きです。前著が意外に好評を得たので、引き続きということで本書が成立しました。
その後、私自身はまったく元気に日常を過ごしています。おかげさまで入院のことなどほぼ忘れてしまいました。次に入院することがあるとすれば、もはや一巻の終わりということだろうと思います。
しかし本書で触れたことは、最近考えていることなので、病気のおかげと言ってもいいかもしれません。
先日も病院に行ったら、「検査の数値はどれも悪くありません」と言われたので、「じゃあ、なんで死んだらいいんですか」とうっかり訊いてしまいました。ろくな患者ではない。もうちょっと、素直になるべきではないかと反省しています。

気が付いたら自分が一番年上になっていた
年をとったせいか、「老い」についてよく聞かれるようになりました。自分1人でいたら、老いなんて思うはずもありませんから、老いというのは、他人が決めるものだと思います。
自分より若い人たちと山を歩いているとき、「船頭さん」(作詞・武内俊子、作曲・河村光陽の童謡)を歌われたことがありました。
今年60歳になる船頭の「おじいさん」は、年をとっても船をこぐときは元気、といった歌詞ですが、これを歌われたときに、初めて自分も年寄りなんだと思いました。僕がみんなよりも先にどんどん歩いて行ったら、後のほうで誰かがこれを歌っていたのです。
もう1つ、老いを感じたのは、いつのまにか自分が一番年上になっていたとき。
僕は大学生のころからいろんな集まりに顔を出していますが、いつも「なんで俺より年下のやつがいないんだ」と思っていました。僕は現役で大学に入っていますが、仲のよい同級生はみんな浪人しているから、自分が一番年下ということがしょっちゅうありました。
それがいつのまにか、自分が一番年上になっているのです。こういうときも年齢を感じます。

若い人と自分のあいだにある「歴然とした差」
でもそれは単なる位置的な関係性でしかありません。むしろ老いを意識するとしたら、身体的能力の衰えでしょう。
例えば目がよく見えなくなります。そのことは若い人と一緒に虫捕りに行くとよくわかります。若い人から「あそこに何かいる」と言われても、僕はぜんぜん気が付きません。そこには歴然とした差があります。
握力も衰えてくるから、ペットボトルのふたも簡単に開かなくなります。ペットボトルのふたが開けられないというのは、しゃくにさわるんですね。そんなこんなで、身体能力の衰えを感じてきています。
年をとってもみんなより早く歩けるのは、若いころから歩くことが好きだったからでしょう。
糖尿病の先生から、「歩くのはいいですね」と言われましたが、別に健康のために歩いているつもりはありません。歩いたほうが気持ちいいから歩いているだけです。そのおかげで、歩行能力に関してはまだそれほど衰えていないのでしょう。

40歳を過ぎたら余生
今も鎌倉の自宅から鎌倉駅に向かうときは片道15分の距離を歩きますし、中学高校のときは片道45分の距離を歩いて、途中で虫を捕っていました。
当時は国道の脇に虫がいっぱいいましたから、長い距離も楽しみながら歩くことができたのです。
基本的に、身体的能力は35歳くらいまではなんとか維持できますが、そこから先は右肩下がりだといわれています。だから人間の寿命は35歳でよいという説もあるくらいです。
女性が昔のように16〜17歳くらいで子どもを産んだとすると、35歳なら孫ができておばあさんになっているわけです。
縄文時代は平均寿命が31歳ぐらいで、40代まで生きた人は歯がすり減ってなくなっています。そのくらいが元々の年齢ではないかと思います。
今はその倍以上も生きていますから。40歳を過ぎたら余生なのかもしれません。

 

第3回目(2回目はどこだ?)

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「死んだあとのことは知ったことではない」養老孟司さんが"終活"は無意味ではた迷惑な行為だと断言するワケ
4/29(土) 12:17配信 プレジデントオンライン

死ぬ前に物などを整理する「終活」が流行っている。自分の死後のことを考えて迷惑がかからないように準備をすることは本当に必要なのか。解剖学者の養老孟司さんは「僕は終活は意味がないと思っています。死という自分ではどうにもできないことに対して、自分でどうにかしようと思うのは不健全です」という──。(第3回/全3回)
 ※本稿は、養老孟司、中川恵一『養老先生、再び病院へ行く』(エクスナレッジ)の一部を再編集したものです。

■「終活」は無意味…
 死ぬ前に物などを処分して整理する「終活」が流行っていますが、僕はこれも意味がないと思っています。死という自分ではどうにもできないことに対して、自分でどうにかしようと思うのは不健全です。
 生まれたときも、気付いたら生まれていたわけです。予定も予想もしていなかったことです。死も「気が付いたら死んでいる」でよいのではないでしょうか。しかも死んでいることに自分が気付くことはありません。
 僕もこれだけ虫の標本を持っていますから、「死んだらどうするんだ?」と訊かれます。そんなことは知ったことではありません。
 今は箱根の別荘に保管していますが、ここも富士山が噴火したら一発で終わりです。コレクションなど、一生懸命貯め込んでも、何かのきっかけで無に帰してしまうこともあるわけです。すべては諸行無常です。

■世の習いは何事も順送り
 いろんな物を貯めこんで死ぬのは、残された家族に迷惑をかけるなどと言われます。でも僕はまったく問題ないと思います。
 何事も順送りです。残された者は大変だけど、そういうことが順送りに繰り返されます。それが人生というものでしょう。
 逆に物を整理して死に際をきちんとしようとするのは、僕ははた迷惑な行為だと思います。「死んだ後も自分の思うとおりに世界を動かすつもりなのか?」と。しかも、その世界は自分では見ることができないのです。
 人が亡くなって、残された家族とか親族がいろいろもめるのは、後の人の教育だと思っていればよいのです。

■虫の標本づくりが一段落するまでは生きていよう
 長生きはしようと思っていませんが、「今やっている虫の標本づくりが一段落するまでは生きていよう」とぼんやり思っています。といっても、いつ片付くかわかりませんが。
 標本づくりに終わりはありませんが、ある分野については終わりにするとか、そういうことをやっておかないと申し訳ないという気持ちはあるのです。
 例えば人からいろんな標本をいただいているので、それだけは片付けておきたいと2~3年前から思っています。
 それでも虫の標本はどんどん増えるので整理しきれません。頭の中で自分なりの整理はついていますが、それを実際に行うとなると、時間がぜんぜん足りません。それこそ死んでいる暇がないのです。

■「虫の日」に虫の法要を行う
 6月4日は「虫の日」です。数年前から、この日に鎌倉の建長寺で虫の法要を行うようになりました。
 僕は虫の標本をつくっていますから、これまでに何万匹もの虫を殺しています。その供養という意味合いで始めました。
 ほとんどの人は自分が虫を殺しているという意識はないでしょう。でもゴキブリやハエを見つけたら、殺虫剤をシューッて平気でやっています。8畳間の部屋に1回シューッとやると、24時間虫がゼロになるという強力な殺虫剤もありますし、最近、新聞を見たら、1年間は大丈夫という殺虫剤の広告も出ていました。
 高速道路を走る車に虫がぶつかると、その虫は死んでしまいます。それでどのくらいの虫が死ぬのか計算した人がいますが、車1台が廃車になるまでに何千万匹もの虫が殺されているそうです。
 誰でも、アリのような小さい虫を年中踏みつけていますし、それをもって生命尊重とか言われても、僕は聞くつもりはありません。

■東大の解剖体慰霊祭
 虫の法要を行っているのは、そんな理由ではなく、なんとなく自分で勝手に考えてやっているだけのことです。
 法要を始めたら、東大医学部で解剖体の慰霊祭というのを毎年ずっとやっていたことを思い出しました。解剖されるのは亡くなった人ですが、解剖するということは、必ず解剖される人がいます。
 病院では病理解剖を行いますし、法理の解剖もあります。亡くなった人を解剖するというのは、医学部ではごく普通に行われていることです。僕も長年、解剖をやってきました。
 解剖というのは、亡くなった人の体にメスを入れてバラバラにします。つまり人の体に何らかの危害を加えているわけです。その気持ちは解剖している僕らにも残ります。東大医学部の解剖学教室に勤務していたときは、「僕らはよくないことをしているのではないか?」と、勝手に思っていました。
 そんな、ちょっと申し訳ないという気持ちから、年に1度、解剖体の慰霊祭が行われていたのだと思います。

■「供養」をする日本人の精神性
 解剖する人は、わかりやすく言うと加害者です。それに対して、解剖されている人は被害者です。慰霊祭は僕たち加害者たちの気持ちを和らげるために行われているのだと思います。
 ただ、こうした行為が、世界中の人に通じるかどうかはわかりません。ケンタッキー・フライド・チキンは世界中に店舗がある多国籍企業ですが、その中で年に1回、鶏の供養を行っているのは、日本のケンタッキー・フライド・チキンだけだそうです。
 他の国の人も鶏を殺して食べているわけですが、別に鶏を殺したとは考えていません。日本人だけが鶏を殺すということについて、どこか気持ちが悼んでいるのでしょう。文化の違いといえばそれまでですが、日本人は鶏を供養することでバランスがとれているのだと思います。
 日本人でも「そんなの迷信じゃないか?」とか、「なんかバカなことをしているんじゃないか?」と思う人もいるでしょう。だから誰でも理解できるように、気持ちのバランスをとるのは相当難しいと思います。

■医者は間違えると患者を殺す
 僕が医学生の頃、インターンで臨床を経験しました。当時は今よりもずっと乱暴な医療だったので、亡くなる患者さんをしょっちゅう診ていました。
 そこで学んだことは、医者は間違えると患者を殺すということです。僕はそういうことが非常に嫌だったので、自分が臨床医になることも嫌になってしまいました。
 でも僕のように人が死ぬのが嫌な人間ばかりだと、医者がいなくなってしまいます。だから患者さんが死ぬのは仕方がないことだと、どこかで吹っ切らないといけません。
 そういう気持ちのバランスを保つ装置の1つとして、慰霊祭があるのではないかと思っています。

■虫塚を自分の墓にすることはできなかった
 2015年、虫の法要を行っている鎌倉の建長寺のご厚意で、虫塚というものを建てさせていただきました。
 日本はおもしろい国で、筆塚のような塚をつくる風習があります。筆塚は長い間使って古くなった筆を供養する塚です。こういうことを世界の他の国の人に言っても、ほとんど理解してもらえません。
 建長寺の虫塚は、僕の後輩でもある建築家の隈研吾さんに頼んで設計してもらいました。普通は石の塔のようものを建てると思いますが、隈さんはジャングルジムみたいなユニークな形をした虫塚にしてくれました。

■虫塚に自分自身が入ろうと思ったが…
 『まる ありがとう』という本にも書きましたが、虫塚のような供養塔は、普通は自分が殺したものを慰霊することが目的です。
 だからこの虫塚には僕自身も入るつもりでした。また虫と関わりのある人なら誰でも入っていいことにしようと思っていました。その理由として、1947年に家制度が廃止されて、墓守りしない人が増えたことがあります。
 戦後、都市への一極集中が進んだために、田舎に放置された無縁墓が増えています。建長寺は創建から760年以上の歴史があるので、これから先もお寺が続いていれば、虫塚も続くと思ったのです。

■墓は勝手につくってはいけない
 ところが、後でわかったことですが、墓を勝手につくってはいけないようです。墓地は墓地として管理しないと、後で動かしたりするときにもめるというのです。結論を言うと、虫塚を墓地にすることはできないということでした。
 僕の母は実家があった相模原に自分で墓を建てて、母方の祖父や祖母もそこに入っています。父は京都の知恩院と、実家のある福井県の墓地にそれぞれ分骨しています。もしかしたら、虫塚に少しだけ分骨するのはできるかもしれません。
 でも虫塚だけを墓にすることはできないので、どうするかはまだ考えていません。おそらく妻が決めるでしょう。何事も順送りですから。
 猫のまるを亡くして2年。その骨壺もまだ自宅に置いてあるのですが、どうするか決めていません。中川恵一さんから、「骨壺を見て毎日涙するのか?」と聞かれましたが、そんなことはありません。何事も諸行無常ですから。
 まるの骨を庭に撒いちゃおうかとも思いましたが、この家もいつまで続くかわかりませんからね。
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養老 孟司(ようろう・たけし)
解剖学者、東京大学名誉教授
1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。医学博士。解剖学者。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。95年、東京大学医学部教授を退官後は、北里大学教授、大正大学客員教授を歴任。京都国際マンガミュージアム名誉館長。89年、『からだの見方』(筑摩書房)でサントリー学芸賞を受賞。著書に、毎日出版文化賞特別賞を受賞し、447万部のベストセラーとなった『バカの壁』(新潮新書)のほか、『唯脳論』(青土社ちくま学芸文庫)、『超バカの壁』『「自分」の壁』『遺言。』(以上、新潮新書)、伊集院光との共著『世間とズレちゃうのはしょうがない』(PHP研究所)、『子どもが心配』(PHP研究所)など多数。
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