「粗にして野だが卑ではない」石田禮助の生涯(城山三郎著)
私的には、懐かしい本で「粗にして野だが卑ではない」の書名をずっと覚えていたが、誰の言葉だったかは忘れていた、それが、先日、書籍を整理していたときに出てきて、再読してみようと思った。
そして、もう一つの懐かしさは、城山三郎という経済小説の大家の本をここのところ読んでいなかった事で、かれこれ、10年前は、経済モノ、ビジネス書などをよく読んでいた時期の事を思い出していた。
そして、もう一つの懐かしさは、城山三郎という経済小説の大家の本をここのところ読んでいなかった事で、かれこれ、10年前は、経済モノ、ビジネス書などをよく読んでいた時期の事を思い出していた。
石田禮助は、78歳にして財界人として初めて(第五代)国鉄総裁となったひとで、現在の目で見ると、余りに「高潔」なために、本当に存在していたのかも疑われる方もいるのではないか、確かに、ある程度の財産は持っていたには違いないが、総裁時の給与は、ほぼ「無給」で通している、さらに、総裁就任中に起きた「鶴見事件」に関してこんな記述がある。
その年十一月九日、鶴見駅付近で貨物列車が脱線転覆したところへ、並走する横須賀線の電車が突っ込む。・・・
石田はとって返し、遺体の安置されている総持寺へかけつけた。そして、百六十を越す棺の列を見て、顔色を失う。
足元おぼつかなく、辛うじて焼香をすませた。
石田は遺族を前に頭を上げられず、
「本当に申訳ないことをいたしました」
うなだれるばかりであった。
それは、部内のものにも記者たちにも、思ってみないとりみだしようであった。まさに白髪をふりみだして、という観があった。
感想を聞かれても、
「地獄(ヘル)だ」
と、短くつぶやくばかりであった。
数日後、自民党本部へ説明に行ったとき、石田は廊下でころび、腕の骨を折った。このため、葬儀の日には、入院中の病院から片腕を白布で吊って出かけた。磯崎(副総裁)が代行しようとしても、
「どうしても自分が行く」
と、聞かなかった。
だが、石田は嗚咽して、用意した弔辞をろくに読めなかった。
石田は辞表を書いたが、慰留された。
先の三河島事故で十河総裁が辞表を出したとき、
「辞めれば責任がとれるものではない」
と、石田は十河を諌めた。
その言葉が、いまは自分の身に当てはまった。
「粗にして野だが卑ではない」という簡潔だが「強力なモノ」を感じる言葉を再び再確認したことと、その反面、現代とはそれだけ複雑な社会なのかと、時代の「価値観」の差を感じた。石田はとって返し、遺体の安置されている総持寺へかけつけた。そして、百六十を越す棺の列を見て、顔色を失う。
足元おぼつかなく、辛うじて焼香をすませた。
石田は遺族を前に頭を上げられず、
「本当に申訳ないことをいたしました」
うなだれるばかりであった。
それは、部内のものにも記者たちにも、思ってみないとりみだしようであった。まさに白髪をふりみだして、という観があった。
感想を聞かれても、
「地獄(ヘル)だ」
と、短くつぶやくばかりであった。
数日後、自民党本部へ説明に行ったとき、石田は廊下でころび、腕の骨を折った。このため、葬儀の日には、入院中の病院から片腕を白布で吊って出かけた。磯崎(副総裁)が代行しようとしても、
「どうしても自分が行く」
と、聞かなかった。
だが、石田は嗚咽して、用意した弔辞をろくに読めなかった。
石田は辞表を書いたが、慰留された。
先の三河島事故で十河総裁が辞表を出したとき、
「辞めれば責任がとれるものではない」
と、石田は十河を諌めた。
その言葉が、いまは自分の身に当てはまった。