110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

精神としての身体(市川浩著)

 本書の内容は、1968年ごろにはこの基本的な文献は発表されていた。
 そして、本書の内容は、最近気になっていた、主観・客観問題にある回答を与えてくれた。
 もう少し、早く本書に気づいていれば良かったのだが、逆に言えば、今だから読めるのかもしれない。

 結論的に「精神は身体」であると考えると、一般的にはわかりやすい、例えば「前」「後」「上」「下」などの空間把握は、人間の身体というものの構造を考えないと非常に捕らえにくい、例えば「芋虫」のような体形だったら、これらの言葉の意味はどうなるだろう。
 そうすると、身体に良い意味でも、悪い意味でも、制約されながら、他者を認識し、そのための意志伝達手段として、言葉が用いられる。
 そして、その言葉が、(繰り返しになってしまうが)意志伝達としての役割と、(外部に語られない)
自己の思考としての役割を担う事になる。
 そのためには、人間の言語能力としての成長が必要だとされている。
 そして、(内在的な)意識とは、ある意味、実際に行動に起す前に、様々な意味で考える(予想する)ことであるという。
 
 あくまで、私的な思索を続けているので、本書を読んで整理できた事を書くと、
 言葉という手段(媒介)によって、意識(思索)することができるはずだが、最近は言葉の重要度が落ちているのではないか、すなわち、言葉で(人は)自分を抑制できないのではないかということ。これは現在、「言葉」で何かの意味を伝えるよりも「画像」で伝えるという手段が発達しているのではないかという仮説だ。しかし、画像は大量の情報を伝えることが可能だが、「停まれ」のような簡潔な「制御」が出来ないのではないかという事だ。

 例えば、最近の安倍内閣の支持率の乱高下を見ていて、既に「言葉」の意味が失墜しているのではないかと思う次第だ。