110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

魔女ランダ考(中村雄二郎著)

 これは1983年刊行(文庫版化は2001年)で、先日の「逃走論(浅田彰著」と、時期的に同じ頃の作品。
 バリ島の演劇に登場する「魔女ランダ」を中心に「演劇的知」というものを導き出そうとする試みなど5つの考察が収められている。
 まず、近代化に失ったものがあるのではないかという指摘がある、これは、ニーチェの「悲劇の誕生」のディオニュソスアポロンの対比をもとに展開される、しかし、実はこれはアポロンではなくソクラテスの事を指しているとして、プラトンアリストテレス以後の哲学を、暗に(?)批判する。
 そして、3章では、当時「家庭内暴力」と呼ばれた若年者の犯罪を解読していく、まず、子供というものが、近代以降に作られた概念であるということ、すなわち、古典社会では、子供は身の回りのことができれば、大人と同一に扱われていたことを指摘し、若年者に対して「子供」という特異な意味を与えているのではないかと指摘している。さらに、ここではベイトソンの精神分裂症における「ダブルバインド」論を元に、その「子供」に対して、親が矛盾する振る舞い(肯定と否定など)を与える事で、いわゆるストレスとして蓄積され、それが暴力原因になるのではないかという事を指摘している。
 この3章の、ある意味、視点をずらした観点からの理論が、4章で展開される、哲学の男性優位性で、歴史的にも哲学は男性を中心に考えられていることに関する疑問が投げかけられる、この2つの章では、ある意味、思い込みや惰性などから、見て見ぬ振りをしてしまうという「意識の落とし穴」、そう、人間の視野は、ある中心(地)を見ているときに、周り(図)はぼんやりとしか見ていないという、ことについて指摘しているように思う。
 そして、このような、弱いものに対する、ある意味差別(格差)という事を、政治に立場から考察したのが5章であり、こんな表現がある、「政治の幅はつねに生活の幅より狭い」、政治は力であり、例えば個々人を統制する事が出来る、だから、政治の執行側は、ある人の生活範囲で考察するのではなく、政治として統制できる範囲を規定して実行するのだ、ということだ。ただし、ここで第3章での家庭内暴力の話が出てくる、基本的に弱い立場の子供が何故親に向かうのか?これは、それぞれの立場の差異が大きいほど抑止力が高いとしている。現在の日本の政治は様々な問題の発生により国民に接近せざるを得なくなっている、本書の論理で行くと、国民と政治(家)の目線が近づいてきているということになる、いわゆる危ない状況下にあるかもしれない。
 日本では、ここ数十年奇跡的に戦争が無いが、人類としては残念ながら戦争が(闘争)はなくなっていない。この潜在的な「野生」をどうしていくのかは大きな問題なのだろう。

 奥の深い著作でした、ただ一読では、まだつかみ切れないところがあります。