110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

精神史的考察(藤田省三著)

 藤田氏については、市村弘正氏を読んでいる時に知った。
 そして、先日の「国際ブックフェア」で、少し安くなったので購入して読んだ。
 実際、書籍を所有すると、古本屋に置いていないかが、すごく気になるのだが、本書の古本は、既に2冊発見した、悔しさと、それだけ本書を読む方が多いのかと、自分を慰める。

 さて、それはさておき、結構考えさせてくれる本だ。
 路地で子供の隠れん坊遊びを見掛けなくなってから既に時久しい。おおよそもう十五年以上にもなるであろうか。時代が変わって遊戯の種類の体系が変化してしまったことにもよるのであろうが、そればかりではなく、路という路に自動車が走り込んで傍若無人の疾駆をほしいままにしていることが大きな原因の一つであろうと思われる。というよりむしろ、現代日本の時代の変貌の方向や在り方を典型的に示しているのが、この自動車の無差別侵入という事態なのであって、そういう変化の仕方の結果、遊戯の体系も根本的に変わり果て、路上の隠れん坊も眼界から消えてなくなったのであろう。むろんここで言う路とは「畿内七道」などという道とはまったく違う。そういう国家制度上の「公道」や今日で言う「ハイ・ウェイ」なら馬車が通ろうと牛車が通ろうと大名行列が通ろうとトラックが走ろうと自動車が飛び跳ねようと、空気の汚染と騒音の拡散がなかったとしたら、直接は私たちの知ったことでない。しかし路地はそれとは違う。路地は家の内部と出口入口を境にしてすぐ連続している親しい外の世界であり、人々が多目的に使う共同の空間である。それは役所的な意味においてではなくて私たちが其処で関係するという意味で公共空間である。その路地を「公道」なみに自動車が疾駆しているのが今日只今の我が社会現状である。そしてそのお陰をもって路地から隠れん坊が消えた。
 これが絵空事でなく読める人は、かなりの年齢だ、この論文が掲載されたのは1981年、その15年前は1966年、その頃の「路地」を知っているかどうかが分かれ目だろう。
 その当時の路地では、人間が明らかに車より優先だったのだ。

 私は、この冒頭だけで衝撃を受けた。
 当時、既に失ったものと、それから、20年以上経って更に失ったもの。