110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

意識の哲学(信原幸弘著)

 本書は2002年に初版が出ている、久しぶりに21世紀の本を読んだ事になる。
 岩波書店「双書、現代の哲学」のうちの1冊をしめている。
 哲学をしていると、意識とモノとの関係は結構厄介な問題がある。
 結局、意識として現れている「そのモノ」が、本当にあるのかを、どのように判断しているのか?
 などということになり、(仮に)現実の「トマト」と意識の上の「トマト」は、何が違うのか、いや違うと困るので、何をもって、同じとするのか、などという事を考え出すことになる。
 ちなみに、本書の副題に「クオリア序説」とある。このクオリアとは「意識に立ち現れるものを総じてクオリアとよぶことにしよう」と本書内にあるが、そういうことのようだ。この「クオリア」と命名されたものが、現実の知覚と、想起などとどう折り合いを付けるかが問題なのだ、ということになる。
 また、本書では、このような議論の時に良く出てくる「心身二元論」では無く「物的一元論」の立場をとっている。
 このスタンスは、市川浩氏や大森荘蔵氏の立場と同じ(近い)と思う(私的には分かりやすい)。

 しかし、なにやら、論議が回り出してきた・・・うーん。
 本書は、1990年代の著書からの参照が多く、なにか長足の進歩があるようにも思えたが、私の貧相な理解力では、今一つ良く見えなかった。
 大森氏のように、想起は言葉によって引き起こされ、その後にイメージがくっついてくる、という考え方の方が、素人の私には理解しやすいのだが・・・
 それは、字幕で映画を見るのだが、普通のものと違って、字幕が先行すると仮定して欲しい、しかも、セリフだけでなくて台本みたいにして出てくるのだ。

 例えば、
 「男、歩いてくる」と出る(「言葉」を意識する)と、その後に男が出現し歩いてくる。
 男「今日は暑いな」と出る(「言葉」を意識する)と、その後に、その男が「今日は暑いな」とセリフを言うわけだ。
 このような感じで、想起(思い出すとき)は、言葉が字幕のように先に意識に現れ、そのイメージが呼び出されるのだ(たまに間違うこともあるのは、そういうことだ・・・?)
 こう考えると、随分、楽になった、多分楽になりすぎなので、この問題に取り組まれている方から「叱責」を頂くかもしれない。
 その時は、教えを受けたいと思う。

 それとともに、私のは、非常に低レベルだが、改めて「言葉の(魔)力」に関して思いをめぐらしている。
 井筒俊彦氏が「言語アラヤ識」という事を著書のなかに記していたが、やはり、悪い言葉(善悪の判断という事はまた難しい問題だが)を「種子」として植え付けないためにはどうすれば良いのか?
 そんな事を(漠然と)考えている。