リオタール寓話集(J・F・リオタール著)
本書は1996年、藤原書店刊行。
リオタールの寓話集と名づけられた小編が収められていて、以前「こどもたちに語るポストモダン」で苦労した事を考えると、今回のはずいぶん分かりやすかった。
また、改めてポストモダンとは何かについては、翻訳者の本間邦雄氏があとがきで、
『キリスト教的救済や歴史の成就といった「大きな物語」が有効ではなくなった現在において、そのような歴史性をベースにおく考え方を停止し、宙吊りにするなかで思考し感覚する状況がリオタールの言う"ポストモダン”である。』
というように、絶対的な『真理』があるとする考え方が、『幻想』となった状況で、どのように考え対応していくことができるのだろうか?という事が、私見では問題のように思われる。
ひたすら、精神分裂症的(現在は統合失調症)に、変わりつづける事も一つの立場かもしれないし、やはり、短い人生なので、その間だけの(あくまで暫定的)普遍を目指すという立場もあるだろう。
ニーチェが神を殺したことは、ある意味ニヒリズムを背中に背負いながら、生きることを余儀なくされた、それは「知る」こと「分かる」ということの、恐怖の側面でもあるのだが、現代の思想では、その恐怖に飲み込まれることなく、ある筋道を見出すという、難しい状況でもあると思う。
たかが「言葉(言語)」かもしれないが、知るということは、怖いことだなぁと、最近感じている。
そんな事を思うと、仏教哲学などでの、初めは言葉を元に修行し、そして、ある領域に達した後は、その言葉を忘れるように修行するという立場は、優れた考え方なのかもしれない。
リオタールの寓話集と名づけられた小編が収められていて、以前「こどもたちに語るポストモダン」で苦労した事を考えると、今回のはずいぶん分かりやすかった。
また、改めてポストモダンとは何かについては、翻訳者の本間邦雄氏があとがきで、
『キリスト教的救済や歴史の成就といった「大きな物語」が有効ではなくなった現在において、そのような歴史性をベースにおく考え方を停止し、宙吊りにするなかで思考し感覚する状況がリオタールの言う"ポストモダン”である。』
というように、絶対的な『真理』があるとする考え方が、『幻想』となった状況で、どのように考え対応していくことができるのだろうか?という事が、私見では問題のように思われる。
ひたすら、精神分裂症的(現在は統合失調症)に、変わりつづける事も一つの立場かもしれないし、やはり、短い人生なので、その間だけの(あくまで暫定的)普遍を目指すという立場もあるだろう。
ニーチェが神を殺したことは、ある意味ニヒリズムを背中に背負いながら、生きることを余儀なくされた、それは「知る」こと「分かる」ということの、恐怖の側面でもあるのだが、現代の思想では、その恐怖に飲み込まれることなく、ある筋道を見出すという、難しい状況でもあると思う。
たかが「言葉(言語)」かもしれないが、知るということは、怖いことだなぁと、最近感じている。
そんな事を思うと、仏教哲学などでの、初めは言葉を元に修行し、そして、ある領域に達した後は、その言葉を忘れるように修行するという立場は、優れた考え方なのかもしれない。