カントの自我論(中島義道著)
基本的には、題名のように、カントの思想を追いながら、自我論、すなわち『私』とは何かについて考えることができる。
その中には、私も課題にしている身体論も含まれていて、とても興味深く読むことができた。
また、本書の目的は、カントの『純粋理性批判』をひとりで読む時の、手引き書の役割も持っている。
その中には、私も課題にしている身体論も含まれていて、とても興味深く読むことができた。
また、本書の目的は、カントの『純粋理性批判』をひとりで読む時の、手引き書の役割も持っている。
内容は、とても素敵でした、楽しく読むことができました。
そして、最後にはどんでん返しがあるのです。
そして、最後にはどんでん返しがあるのです。
とりあえず、本書は評価されたい方は、最後に著されている『附録 カントとの37年』を立ち読みしましょう、何か感じることができるかもしれません。
さて、本書の内容とは直接関係無い部分を引用しましょう。
ただ、このFという人物が、精神的もしくは器質的な病気でこうなったとしたら。
本書を読むと、記憶-想起ということが良く出てきます、その情報が正常でなければ、簡単に(私の)世界が崩壊してしまうのですね。
Fという人について、そして、Fという人を見ている人(私)の間には、自ー他関係が維持できないんですね。
そんな事を考えてしまいました。
私がある男Fと旅行に出かけたとする。Fは私と同じように感動し、喜び、恐れ、怒りを覚えているようなふるまいをする。Fはかずかずの光景について私に感想を語る。しかし、あとで問いただしてみると、Fにはそれらの記憶の片鱗もない。この場合、私がそこにいかに一定のふるまいを、さらにはそれらを通して一定の心的状態を推理できたとしても、Fは他者ではない。Fのふるまいのすべては赤ん坊や犬のふるまいと同じく、ただの規則的な自然現象にすぎない。
(この引用は、本当に関係ないんですよ)ただ、このFという人物が、精神的もしくは器質的な病気でこうなったとしたら。
本書を読むと、記憶-想起ということが良く出てきます、その情報が正常でなければ、簡単に(私の)世界が崩壊してしまうのですね。
Fという人について、そして、Fという人を見ている人(私)の間には、自ー他関係が維持できないんですね。
そんな事を考えてしまいました。