110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

三つのヘーゲル研究(T・W・アドルノ著)

 本書は1986年河出書房新社刊行。
 それに、大幅に手を加えたものをちくま学術文庫版で読むことができる。

 さて、以前ハイデッガーなどに興味を持っているなどと書いていたことを思うと、(大変)矛盾するようだが、現在、アドルノは気になる存在だ、同時期の哲学者の中に埋もれるようになってしまい目立たない存在のようだが、まぎれもなく20世紀の偉大な哲学者の一人だ。

 本書では、特にヘーゲルを専門にしているわけではない、アドルノヘーゲルに関する論文が納められている。
 この中で、一番面白く読めたのが、第三部『「暗い人」ーまたはヘーゲルをどう読むか』で、ここではヘーゲルの論理的に矛盾するような文章を捉えて、言葉ではどうしても伝えられない事を伝えることについて、言及している。そこでは、脱構築ならぬ「脱テキスト」という考え方が出てきて、ヘーゲルの著作だけでは理解できない「何か」をどのように捉えて読み込んで行くのかが著されている。
 本章は1962-63年に渡って書き表されたものだが、翻訳も優れているのだろうが、内容も今から40年以上前の考え方とは思えない進んだ捉え方(読み解き)をしているように思う。
 「語ることのできないものについては、沈黙すべきである」というウィトゲンシュタインのモットーは、まったく反哲学的である。そのなかには、極端な実証主義が、さらに輪をかけて、畏れ多い、権威ありげな本来性という姿になって現れている。そのためにこのモットーは、人間を一種の知的な集団暗示にかけてしまう。だが、哲学というものはーもしなんらかの定義が必要だとしたらー語りえないものをなんとか語ろうとする努力であると定義できないだろうか。言いかえると、一方で表現がいつもそれを同一化してしまうのに、非同一的なものに手を貸して、なんとかそれを表現する努力だと定義できないだろうか。ヘーゲルはまさにそれを試みたのである。非同一的なものは直接に語ることができない。そして直接的なものはすべて虚偽であるーそれゆえ、その表現は必然的に不明瞭であるーから、彼はこの非同一的なものを、倦むことなく他のものを介して間接的に語るのである。・・・

 何か、禅問答のような発想にも思えてくる、アドルノの発想に(本人は意識しないことだろうが)東洋的なものを感じてしまった。
 また、テクストを音楽のように分析して読みこんでいくような姿勢も伺えた。
 音楽を聞くといくことは、ある意味受動的だが、その受動の中に表現が存在する、テキストとしてあるものは、読み手が自分のリズムで読んでいくが、例えば、途中で勝手に読むのを止めたり、リズムを変えたりすると、浮かび上がってこない「旋律(意味)」があるということを指摘している様にも思う。
 なるほどなぁと感心しつつ、今、積み上がった本が減ってきたら、ヘーゲルを読んでみたいと思った。
 それも、アドルノ流で。