デカルト的省察(フッサール著)
本書は岩波文庫版で読む。
ここのところ、哲学の基本的な問題を取り扱う本に良く出会う様になった。
多分、それは、今まで、過去に語られたの哲学(思想)はそれだけ程度の低いものという先入観や誤解が少しずつ解消されてきたからなのかも知れない。
(少し前に取り上げた柄谷行人氏の「探求2」でもデカルト→スピノザという様な論旨が出てきた)
デカルトの有名な「Cogito, ergo sum」は、(デカルトの著作)「省察」の中には見出せず、「哲学原理」の中に、類似する文章として「Ego cogito,ergo sum.」という言葉があるという注釈を見て、また何か感じてしまった。
下らないこだわりと思われるかもしれないが「我思う」が「在る」に先立つのか、「在る」が「我思う」に先立つのかは、存在する仕方が違うようにも思う。
本書では、このデカルトの思索を、このままの順序で推し進めて行っている。
そこには、どのようにして、私が認識してしまう世界、そして、他者やモノが在るのかという、その問題が説かれていなければならない。
それが、本書では「第五省察」という章に述べられている。
しかし、残念ながら、未だ一読のレベルでは、何故、エゴが超越的に他者を認識するのかは、良く理解できていない、それは、経験的・類推的なものなのだろうか・・・?と想像を膨らませている様な段階だ。
また、機会があれば他の著作などに触れて見たい。
現象学は私にとっては難解なのだ。
ここのところ、哲学の基本的な問題を取り扱う本に良く出会う様になった。
多分、それは、今まで、過去に語られたの哲学(思想)はそれだけ程度の低いものという先入観や誤解が少しずつ解消されてきたからなのかも知れない。
(少し前に取り上げた柄谷行人氏の「探求2」でもデカルト→スピノザという様な論旨が出てきた)
デカルトの有名な「Cogito, ergo sum」は、(デカルトの著作)「省察」の中には見出せず、「哲学原理」の中に、類似する文章として「Ego cogito,ergo sum.」という言葉があるという注釈を見て、また何か感じてしまった。
下らないこだわりと思われるかもしれないが「我思う」が「在る」に先立つのか、「在る」が「我思う」に先立つのかは、存在する仕方が違うようにも思う。
本書では、このデカルトの思索を、このままの順序で推し進めて行っている。
そこには、どのようにして、私が認識してしまう世界、そして、他者やモノが在るのかという、その問題が説かれていなければならない。
それが、本書では「第五省察」という章に述べられている。
しかし、残念ながら、未だ一読のレベルでは、何故、エゴが超越的に他者を認識するのかは、良く理解できていない、それは、経験的・類推的なものなのだろうか・・・?と想像を膨らませている様な段階だ。
また、機会があれば他の著作などに触れて見たい。
現象学は私にとっては難解なのだ。