ミニア・モラリア(テオドール・W・アドルノ著)
本書は法政大学出版局から刊行のものを読んだ。
重ね重ねだが、日本語はその特殊性からいわゆるマイナーな言語であるが、それを補うように、学識者が翻訳に励んでいる。
本書が、日本語で読めるという、ただそれだけで感謝の思いだ。
(ちなみに、前回がラ・ロシュフコーの箴言集なので、偶然とはいえ面白い関係だと思う)
重ね重ねだが、日本語はその特殊性からいわゆるマイナーな言語であるが、それを補うように、学識者が翻訳に励んでいる。
本書が、日本語で読めるという、ただそれだけで感謝の思いだ。
(ちなみに、前回がラ・ロシュフコーの箴言集なので、偶然とはいえ面白い関係だと思う)
アドルノという思想家・哲学者の一般評価は、よくわからないし、なお、その深い洞察を著作から的確に読み解くという能力も私には無いことを前提にしても、最近妙に共感している部分がある。
本書なども、最初のアフォリズム(箴言?)を読んだだけで、もう読むことがやめてしまう人もいるだろう、ある意味現代への批判(警句)なのだ。
それは、21世紀に入り、アドルノの時代にはまだ残っていた(社会的な)違和感が、現代ではすべて社会に取り込まれてしまった事なのかもしれない。
まぁ、私のような、ショーペンハウル~アドルノのような、(私のような)天邪鬼系列が好みの者の「戯言」であるのかもしれないが・・・・
本書なども、最初のアフォリズム(箴言?)を読んだだけで、もう読むことがやめてしまう人もいるだろう、ある意味現代への批判(警句)なのだ。
それは、21世紀に入り、アドルノの時代にはまだ残っていた(社会的な)違和感が、現代ではすべて社会に取り込まれてしまった事なのかもしれない。
まぁ、私のような、ショーペンハウル~アドルノのような、(私のような)天邪鬼系列が好みの者の「戯言」であるのかもしれないが・・・・
さて、本書を読んでいて、面白い文章に出会った、昨年だったが「KY(空気読めない)」という言葉が流行ったが、その言葉の意味に「違和感」を持っていた、ところが、本書の中にこのようなくだりがあったのだ、
・・・ごく内輪の集まりでさえ、その場の水準を決定するのは座中で一番程度の低いものなのである。会話の中で一座の誰かの理解力をこえたようなことを -その誰かがただ一人の場合でも- 口にする人間は気が利かないことになる。その場にひとりでも人情を解さぬ者がいると、人情を解さぬ人間に対する人情のようなものが働いて、話題の範囲が日常茶飯のごく身近なありふれたことに限られてしまう。世の中に対話を阻むような空気が漲り始めて以来、とりつく島のないようなタイプの立場が強くなった。このタイプの人間は、地金を現わし頑なに自身の利益を言い立てるだけで、所期の目的を達することができるのである。・・・
このKYの意味は、その場を保つために、一番程度の低いところにあわせるということならば、何か、虚しい時間つぶしの様な体を現わしているようにも思うのだが・・・・?