脳が心を生みだすとき(スーザン・グリーンフィールド著)
本書は1999年草思社刊行の「サイエンス・マスターズ」の11巻目。
1994年に著者が(英国)王立研究所のクリスマス講義などをもとに、(その当時の)脳についての研究成果の一部を一般の人にも分かりやすく理解してもらうと言う趣旨で執筆されたもの。
はや、10年以上経過しているので、この当時に比べ新しい事象も多々発見されていることだろう、しかし、最先端の研究者ではそこまで理解することはなかなか難しいだろうし、私にとっては、この本の内容でも十分満足した。
人間の脳、そしてどんな動物の脳も、未だに不思議なものであることに間違いは無いだろう。
本書でも、脳は、化学的なコンピューターという様な位置づけがされていたが、現在の、コンピュータとはどうも設計のコンセプトが違うようだ。
また、人間のコンピュータは、睡眠中でも全体の20%に及ぶエネルギーを消費する器官であり、もし、睡眠(休息)をとらなければ、そのエネルギーの消費に体が耐えられなくて衰弱死するという、文書を見つけて、妙に感心してしまった。
さて、話は関係ないほうに脱線するのだが、濫読をしていると、思わぬところで、読んだ本の間に関係性が生まれることがある。
実は、本書と、前回上げた山崎正和氏の「演技する精神」の間に、あくまで私見ながら、面白い共通性が見受けられた。
「演技する・・・」の評価で、山崎氏の考え方が更に分からなくなったという感想を述べたが、この書の中で、山崎氏が、メルロ=ポンティの著作を評して、生物学に依存しすぎると言うような事を書いていた。
実は、この考え方について、本書では違和感を持ったのだ、逆に、メルロ=ポンティの様に、生身の体を生理学的に哲学と結びつけることを肯定しても良いのではないかと思ったのだ。
さて、それはひとまず置いて、それでは、今度は本書と、「演技する・・・」は、何が共通するのか?
すべてではないが、ダイジェストすると、山崎氏は、間主観性の問題について、その根底には「リズム」があると指摘する。
その説明があるのだが、そのリズムは具体的に何なのかは良くつかめなかった、しかし、本書を読むと、脳はある種の波長を出している、これは、皆さんもご存知のα波とかβ波とかいうものであり、例えば、これであれば、人間の間で明らかに共有できる(基調の)リズムと言えるのではないかと思った、その共通のベースの上に「序破急」を持ってくることができるのではないかと思った。
また、自我の形成についても、本書では、脳の性質は変化していると端的に表現されている、すなわち、自我というものが先立って存在するのではなく、山崎氏の指摘の様に「行動」することで、脳の神経の連携が変わり(学習し)、その結果、後で振り返ったときに(脳の神経の連携に伴い)自我が形成されてくるという考え方ができるのではないか。
そのような、事を考えると、「演技する・・・」という著作が、演劇や哲学的思考から発生して、生理学的な状況をある意味示唆している書だという様に思えてきた。
(実は、まだ共通点はある)
以上のことは、あくまで私見でしかないが、とにかく、個人的には面白い読書であった。
ちなみに「草思社」は一時期民事再生申請していたが、スポンサーが付いて現在も存続している。
最近古本しか買わない私に発言権はなさそうだが、それでも、出版社が生き延びるという事はうれしいことだ。
1994年に著者が(英国)王立研究所のクリスマス講義などをもとに、(その当時の)脳についての研究成果の一部を一般の人にも分かりやすく理解してもらうと言う趣旨で執筆されたもの。
はや、10年以上経過しているので、この当時に比べ新しい事象も多々発見されていることだろう、しかし、最先端の研究者ではそこまで理解することはなかなか難しいだろうし、私にとっては、この本の内容でも十分満足した。
人間の脳、そしてどんな動物の脳も、未だに不思議なものであることに間違いは無いだろう。
本書でも、脳は、化学的なコンピューターという様な位置づけがされていたが、現在の、コンピュータとはどうも設計のコンセプトが違うようだ。
また、人間のコンピュータは、睡眠中でも全体の20%に及ぶエネルギーを消費する器官であり、もし、睡眠(休息)をとらなければ、そのエネルギーの消費に体が耐えられなくて衰弱死するという、文書を見つけて、妙に感心してしまった。
さて、話は関係ないほうに脱線するのだが、濫読をしていると、思わぬところで、読んだ本の間に関係性が生まれることがある。
実は、本書と、前回上げた山崎正和氏の「演技する精神」の間に、あくまで私見ながら、面白い共通性が見受けられた。
「演技する・・・」の評価で、山崎氏の考え方が更に分からなくなったという感想を述べたが、この書の中で、山崎氏が、メルロ=ポンティの著作を評して、生物学に依存しすぎると言うような事を書いていた。
実は、この考え方について、本書では違和感を持ったのだ、逆に、メルロ=ポンティの様に、生身の体を生理学的に哲学と結びつけることを肯定しても良いのではないかと思ったのだ。
さて、それはひとまず置いて、それでは、今度は本書と、「演技する・・・」は、何が共通するのか?
すべてではないが、ダイジェストすると、山崎氏は、間主観性の問題について、その根底には「リズム」があると指摘する。
その説明があるのだが、そのリズムは具体的に何なのかは良くつかめなかった、しかし、本書を読むと、脳はある種の波長を出している、これは、皆さんもご存知のα波とかβ波とかいうものであり、例えば、これであれば、人間の間で明らかに共有できる(基調の)リズムと言えるのではないかと思った、その共通のベースの上に「序破急」を持ってくることができるのではないかと思った。
また、自我の形成についても、本書では、脳の性質は変化していると端的に表現されている、すなわち、自我というものが先立って存在するのではなく、山崎氏の指摘の様に「行動」することで、脳の神経の連携が変わり(学習し)、その結果、後で振り返ったときに(脳の神経の連携に伴い)自我が形成されてくるという考え方ができるのではないか。
そのような、事を考えると、「演技する・・・」という著作が、演劇や哲学的思考から発生して、生理学的な状況をある意味示唆している書だという様に思えてきた。
(実は、まだ共通点はある)
以上のことは、あくまで私見でしかないが、とにかく、個人的には面白い読書であった。
ちなみに「草思社」は一時期民事再生申請していたが、スポンサーが付いて現在も存続している。
最近古本しか買わない私に発言権はなさそうだが、それでも、出版社が生き延びるという事はうれしいことだ。