キルケゴールを学ぶ(大屋憲一・細谷昌志編)
本書は1996年世界思想社刊行のもの。
実存主義の原点、キルケゴールには興味があるのだが、その著作はなかなかわかりづらい。
そんな時に目についたのが本書であった。
現在に、実存主義に興味を持つなど、まぁ異端だと思うが、再びそういう原点から考えても良いのではないかと思う。
そして、キルケゴールは、そのゴールを「キリスト者」として描いた、すなわち、宗教者としての実存を目的にしたのだ。
宗教が前面に出るということに、拒否反応を示す人もいるのではないかと思う、以前は、そういう考えだったからだ。
しかし、その場合、何を元に自分を擁立するのか・・・という問題に突き当たる。
理性という言葉もあるだろう、しかし、その理性なるものも少しづつ変化しているように思う。
それでも、善悪のような、絶対的な言葉を(或る意味不用意に)使うことも多い。
理性すら変化するのならば、その善悪の意味とは・・・・?
このように考えると、私は口を塞ぐしかなくなる。
「不殺生」という言葉は、割合すんなり納得してしまうが、残念ながら、私は、生物に対しての殺戮者である。
そういう矛盾にまみれて生きていくことについて考えると、何故か実存主義に戻ってしまうのだ。
実存主義の原点、キルケゴールには興味があるのだが、その著作はなかなかわかりづらい。
そんな時に目についたのが本書であった。
現在に、実存主義に興味を持つなど、まぁ異端だと思うが、再びそういう原点から考えても良いのではないかと思う。
そして、キルケゴールは、そのゴールを「キリスト者」として描いた、すなわち、宗教者としての実存を目的にしたのだ。
宗教が前面に出るということに、拒否反応を示す人もいるのではないかと思う、以前は、そういう考えだったからだ。
しかし、その場合、何を元に自分を擁立するのか・・・という問題に突き当たる。
理性という言葉もあるだろう、しかし、その理性なるものも少しづつ変化しているように思う。
それでも、善悪のような、絶対的な言葉を(或る意味不用意に)使うことも多い。
理性すら変化するのならば、その善悪の意味とは・・・・?
このように考えると、私は口を塞ぐしかなくなる。
「不殺生」という言葉は、割合すんなり納得してしまうが、残念ながら、私は、生物に対しての殺戮者である。
そういう矛盾にまみれて生きていくことについて考えると、何故か実存主義に戻ってしまうのだ。