日本のことばとこころ(山下秀雄著)
本書は1979年講談社より刊行された、私は、その後1986年に初版の講談社学術文庫版を読む。
日本語にまつわる著書は多いのだが、本書は、日本語の教師として、外国人を指導する経験を持つ著者が書いたもので、外国語・外国人と言う、他者の視点から日本語を分析していくと言うところが、異色であり、優れた特徴なのではないかと思う。
そして、本書の中での事例の、文法的な解説に、日本人である「自分」が、いかにその特徴を知らずに、きちんと使っているかを知ってびっくりした。
ただただ、日本語の利用について、文法を知らず(考えず)、経験的に正解を出しているのだ。
それは、いかに、日本語の中に、いや、日本の文化に埋没しているかを示しているのだ(とこのように、簡単に、日本語の特徴である、『恐ろしいほどの語の省略』をしてしまうのだ)。
そして、本書の解説の伊丹十三氏も指摘しているように、日本語は本質的に人称の区別の曖昧な言語であり、他者というものの意識が、日本語を使うときに、必然的(しかも、相対的に)に入りこんでしまう言語だということだ。
それは、個人主義の進化した現在の日本では、言語的に「窮屈」になるのではなかろうかと思ってしまう・・・思うに、この点は、既に(日本語の)変化が進行しているのではないだろうか?
さらに、「然り」と思ったのが、現在、過去、未来という考え方がないこと。
本書で説明されているように、これらは「已然」「未然」という2つの時制で表現されているのだ。
これは、鋭い感覚だと思う。
実は「現在」を捉えることは、非常に難しい・・・「今」は、今(現在)でなく、ほぼ100%過去のことを指すことを思い浮かべると良い。
そういう面では、これも、観念の簡素化なのかも知れないが、実際的な考え方(思想)なのだと思った。
本書では、そういう日本語の捉え方に、ついて、興味深く読ませてもらった。
しかし、日本語の文法に弱いことに改めて気づいた・・・反省。
日本語にまつわる著書は多いのだが、本書は、日本語の教師として、外国人を指導する経験を持つ著者が書いたもので、外国語・外国人と言う、他者の視点から日本語を分析していくと言うところが、異色であり、優れた特徴なのではないかと思う。
そして、本書の中での事例の、文法的な解説に、日本人である「自分」が、いかにその特徴を知らずに、きちんと使っているかを知ってびっくりした。
ただただ、日本語の利用について、文法を知らず(考えず)、経験的に正解を出しているのだ。
それは、いかに、日本語の中に、いや、日本の文化に埋没しているかを示しているのだ(とこのように、簡単に、日本語の特徴である、『恐ろしいほどの語の省略』をしてしまうのだ)。
そして、本書の解説の伊丹十三氏も指摘しているように、日本語は本質的に人称の区別の曖昧な言語であり、他者というものの意識が、日本語を使うときに、必然的(しかも、相対的に)に入りこんでしまう言語だということだ。
それは、個人主義の進化した現在の日本では、言語的に「窮屈」になるのではなかろうかと思ってしまう・・・思うに、この点は、既に(日本語の)変化が進行しているのではないだろうか?
さらに、「然り」と思ったのが、現在、過去、未来という考え方がないこと。
本書で説明されているように、これらは「已然」「未然」という2つの時制で表現されているのだ。
これは、鋭い感覚だと思う。
実は「現在」を捉えることは、非常に難しい・・・「今」は、今(現在)でなく、ほぼ100%過去のことを指すことを思い浮かべると良い。
そういう面では、これも、観念の簡素化なのかも知れないが、実際的な考え方(思想)なのだと思った。
本書では、そういう日本語の捉え方に、ついて、興味深く読ませてもらった。
しかし、日本語の文法に弱いことに改めて気づいた・・・反省。