老人介護常識の誤り(三好春樹著)
本書は新潮社平成12年刊行のもの、私は新潮文庫版(平成18年)を読む。
私の両親は健在で、平均80歳だが、多少の呆け(失礼)は見受けられるものの、介護が必要ではない。
(単なるボケなら、私のほうがありそうだ)
しかし、一緒に暮らしていると、昔の力が無くなっていることがわかるのだ。
「いつかその日が来るのではないか」
そんな事を考えると、思わず、哲学に走ってしまうのだ。
以前から、ハイデッガーや、身体論(市川浩など)にこだわっていたのも、もしかすると、このような状況に反応しているのではないかとも・・・思う。
本書を読んでみると、まさに、この身体論に関係するのだ。
どうしても、私の目から両親を見ることは、ある意味、その当事者(すなわち主体である)両親を、外から眺めることにしかならない。
それは、本人の意思とは別の、客観的理性的合理的、時として功利的な見方しか出来ないことになる。
「それではだめだよ」・・・・というのが本書の内容である。
表紙裏には、『谷川俊太郎推薦「この本は実用書であると同時に思想の書である。・・・・」』とあるのだが、まさにその通り、個別と抽象、主体と客体の関係をどうとりもって行けば良いのか?・・・その問題に対するヒントがここにはあると思うのだ。
さて、本書にはこんな問題が載っていた、要約すると、「神様が、あなたに長寿を補償してくれたとしよう、しかし、寝たきりか呆けかどちらかになる、どちらかを選べ・・・と言われたとき、あなたはどちらを選ぶか?」
この本書での回答は、なかなか鋭いのだ、立ち読みでよいので、ここだけでも一読してみてはいかがかと思う。
ちなみに、まだ生命力の方が勝っている世代の方々には、面白い本ではないだろうと(勝手に)予想する。
私の両親は健在で、平均80歳だが、多少の呆け(失礼)は見受けられるものの、介護が必要ではない。
(単なるボケなら、私のほうがありそうだ)
しかし、一緒に暮らしていると、昔の力が無くなっていることがわかるのだ。
「いつかその日が来るのではないか」
そんな事を考えると、思わず、哲学に走ってしまうのだ。
以前から、ハイデッガーや、身体論(市川浩など)にこだわっていたのも、もしかすると、このような状況に反応しているのではないかとも・・・思う。
本書を読んでみると、まさに、この身体論に関係するのだ。
どうしても、私の目から両親を見ることは、ある意味、その当事者(すなわち主体である)両親を、外から眺めることにしかならない。
それは、本人の意思とは別の、客観的理性的合理的、時として功利的な見方しか出来ないことになる。
「それではだめだよ」・・・・というのが本書の内容である。
表紙裏には、『谷川俊太郎推薦「この本は実用書であると同時に思想の書である。・・・・」』とあるのだが、まさにその通り、個別と抽象、主体と客体の関係をどうとりもって行けば良いのか?・・・その問題に対するヒントがここにはあると思うのだ。
さて、本書にはこんな問題が載っていた、要約すると、「神様が、あなたに長寿を補償してくれたとしよう、しかし、寝たきりか呆けかどちらかになる、どちらかを選べ・・・と言われたとき、あなたはどちらを選ぶか?」
この本書での回答は、なかなか鋭いのだ、立ち読みでよいので、ここだけでも一読してみてはいかがかと思う。
ちなみに、まだ生命力の方が勝っている世代の方々には、面白い本ではないだろうと(勝手に)予想する。