110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

見えるものと見えざるもの(M.メルロ=ポンティ著)

 本書は法政大学出版局刊行のものを読む(他にみすず書房にも別訳がある)

 著者の(不慮の)死後に、当時執筆途上だった本書の草稿と、執筆のために記した研究ノートをまとめた作品。

 本書にて、「行動の構造」「知覚の現象学」などの一連の著作が、本書における「存在論」のための布石だったことがわかる。
 しかし、本書と「知覚の現象学」では、随分と異なる読後イメージを持った。

 ただし、著者の言う、主観・客観、精神・身体、内・外というような対比における、存在論や心身論には私も違和感を持っている。
 人間は内も外も無くなんとなく開かれている存在だ。
 ただし、自分というものがあるように錯覚しているのだ。
 しかし、その自分も、自分の身体(肉)を通して、この世界と交流しているのだ。

 本書は哲学書なのだが、そこから少し逸脱して、現在の世界を考えてみると(これは自然科学的な発想だが)。
 人間は物質的(食物・水)にも、情報的(会話・TV・・・)にも絶えず外部とやり取りをしている、そして、そのやりとりによって、自分を変えながら=維持(それは、前の身体と必ずしも同じではないが)しているのだ(地球の表面の薄い層は、有機物の宝庫なのだ、地球生物は、常に身近にサービスパーツを用意しているようなものなのだ)。

 だから、主観客観などという区別は怪しいのだ、でもそうしないと「自分」が無くなる可能性があるので、こういう便宜(嘘かな?)をはかるのだ。
 
 本来、地であったところに図が浮かび上がる、そのような感覚で、本来、自然(本能的?)な状態(地)に自我(図)が発生すると、どうなるのか?

 そこには、概念の捩れが存在するように思う。
 その捩れの上に存在するのが人間社会であるのかもしれない。