わざとらしさのレトリック(佐藤信夫著)
本書は1986年「言述のすがた」という題名で青土社より出版されたものを、表題の様に改題し、講談社学術文庫版で刊行したもの。
この著者の作品は間違いないあれば読んでいる、本作では、漱石、小林秀雄、吉行淳之介、谷川俊太郎、井上ひさし、筒井康隆、ロラン・バルトという散文について、その言述を評価するもの。
言葉は思いもよらないところで、その著者の意図したところの意味を外れてしまう(厄介な)ものだ。
だから、言葉による表現には多様性・・・即ち、意味を伝えるための多くの手法がある。
そこで、本作では、ある意味異端とも言える作者(井上、筒井・・・失礼)が登場する。
しかし、本来、その意味するところの不定性があるのが、言葉の本来の姿ならば、表現自体の論理性よりも、いかに、<何か・・・内容>を、伝えるのか(その行為)が、問題になるのではないだろうか。
例えば、明らかに、自分の意図と反対の事を伝え続けても、結果的に、自分の意図に適った「結果」が発生すればよいわけだ。
本書では、言述、そして、言葉というものを考える良い機会を与えてくれる、良い著作だと思う。
ちなみに、Webで調べると、本書は古書としては、意外にレア(私にとって高値)なものでした。
この著者の作品は間違いないあれば読んでいる、本作では、漱石、小林秀雄、吉行淳之介、谷川俊太郎、井上ひさし、筒井康隆、ロラン・バルトという散文について、その言述を評価するもの。
言葉は思いもよらないところで、その著者の意図したところの意味を外れてしまう(厄介な)ものだ。
だから、言葉による表現には多様性・・・即ち、意味を伝えるための多くの手法がある。
そこで、本作では、ある意味異端とも言える作者(井上、筒井・・・失礼)が登場する。
しかし、本来、その意味するところの不定性があるのが、言葉の本来の姿ならば、表現自体の論理性よりも、いかに、<何か・・・内容>を、伝えるのか(その行為)が、問題になるのではないだろうか。
例えば、明らかに、自分の意図と反対の事を伝え続けても、結果的に、自分の意図に適った「結果」が発生すればよいわけだ。
本書では、言述、そして、言葉というものを考える良い機会を与えてくれる、良い著作だと思う。
ちなみに、Webで調べると、本書は古書としては、意外にレア(私にとって高値)なものでした。