110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

本居宣長(小林秀雄著)

 本書は、新潮文庫版で読む。

 新潮文庫版だと上下二分冊なのだが、上巻を読み終えてから下巻を読み終えるまで随分と時間が空いたのだ、しかし、その間は無駄ではなかったと思う。
 本書を一読してすべて理解できるほどの読解力は持ち合わせていないが、この空いている時間のおかげか、特に下巻を読んでいると、漠然とながら感じ入るところがあるのだ、やはり、本書はお勧めの本だと言えよう。
 それは、本居宣長、大和心という面もあるのだが、その孤独な学問、そして学問に対する姿勢に感じるところがあるのだ、そして、そういう著す、著者の力量、問題意識なども伺うことができるのだ。

 古典の読解というと、人によっては、現在から見た当時の文献の解釈であると割り切ってしまうことだろうし、必然的にそうならざるを得ない部分もあろう、しかし、宣長は、そういう読み方ではなく、万葉集を読み解くにあたり、身も心も当時の人に成りきって読み解こうとする、それは、有る意味理屈の世界ではなく、しかも、これほど確かな読み方はないことになる。
 しかし、言葉で言うはたやすいが、実際にやってみると非常な困難なことだと了解されよう。

 そういう考え方を著す象徴的なことが、上田秋成との論争だと言えよう。

 秋成は、万葉集の論理性のなさを、後世の学者として指摘するのだが、宣長は、その当時に住む、一人の万葉人という立場で考えているので、そこに矛盾を感じない、すなわち、この両者の間には次元の違いがあるのだが、この秋成の様な知識人たちのことを、理屈で判断する人、「漢意(からごころ)」の人として退けるのだ。
 いや、退けるというよりも問題外なわけだ。

 そして、この「からごころ」が一つの問題点として指摘している。
 本書の最後に、江藤淳と本作について対談しているが、そこで「漢ごころの根は深い。何にでも分別が先に立つ。理屈が通れば、それで片をつける。それで安心して、具体的な物を、くりかえし見なくなる。そういう心の傾向は、非常に深く隠れているという事が、宣長は言いたいのです。そこを突破しないと、本当の学問の道は開けてこない。」とある。

 理屈が確率に還元してしまうことが非常に怖いことだと思う。
 99%大丈夫とは、100人に1人は何かのトラブルに巻き込まれることだ。
 そして、その確率が一人歩きすることで、現実の事件の責任がうやむやになる可能性があることだ。

 ちなみに、本書を読みながら、小佐古敏荘元内閣官房参与のことを考えていた。
 小佐古氏は、放射能被害の可能性を限りなく引き下げたかったはずだ、しかし・・・・。

 この国では、何か、尋常で無いことが起きているのかもしれない。