110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

断章75~79

 断章75は、冒頭の「第一部、第二篇・・・」に続いて「臆説。さらに一段引き下げて、それをおかしなものにすることは、困難ではないだろう。なぜなら、それ自体からはじまれば」という意味がとりにくい一説が入る。
 私見では、最後の「それ自体からはじまれば」が鍵の言葉ではないかと怪しむ、それは、神の存在を無視して、自分の居る立場(人間)から判断してしまうという事なのだろう。

 だから、その後に続く文章では「生気のない物体が情念や恐れや嫌悪を持ち、また、無感覚で、生気をもたず、生命の資格さえない物体がそれを感じるためには、すくなくとも感性的霊魂を前提とする情念を持ち・・・・」という現在のわれわれから見るとかなり違和感を感じる論説になっているのだが、これは時代背景を考慮に入れるべきだろう。
 それよりも、相当科学が進んだ現代でも、何故、物体から生命が構成できるのかどうか、本当に分かっているのかは、浅学な私には解答不能だ。

 断章76
 学問をあまり深く究める人々に反対して書くこと。デカルト。(全文)
 ・・・人間が追求できる知性には限界があるということだろう。

 断章77
 私はデカルトを許せない。彼はその全哲学のなかで、できることなら神なしですませたいものだと、きっと思ったのだろう。しかし、彼は、世界を動き出させるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにいかなかった。それからさきは、もう神に用がないのだ。(全文)
 ・・・都合の悪いところを神の振る舞いにする。

 断章78
 無益で不確実なデカルト。(全文)

 断章79
 本章は「デカルト」ではじまる。
 その後「大づかみにこう言うべきである。『これは形状と運動から成っている』と。なぜなら、それはほんとうだからである。だが、それがどういう形や運動であるかを言い、機械を構成してみせるのは、滑稽である。なぜなら、そういうことは、無益であり、不確実であり、苦しいからである。そして、たといそれがほんとうであったとしても、われわれは、あらゆる哲学が一時間の労にも値するとは思わない」(全文)

 ここの数章はデカルトが象徴として上げられているのだが、いわゆる自然科学批判なのだろう。
 自然科学の知識が蓄積され、精度が向上しても、たどり着けない何者かがある、それは下世話な言葉に聞こえるかもしれないが「真理」というものであろうか?
 そして、この第二章に集められたものは「神なき人間の惨めさ」であることを再度確認しよう。
 だから、「たといそれがほんとうであったとしても」、「一時間の労にも値するとは思わない」という言葉が出てくるのではなかろうか。