110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

貧困たたき・・・相対的貧困

こんな記事があった。
「貧困たたき」スマホSNSも贅沢?〝ぱっと見〟で攻撃する危うさ 清川卓史
 NHKのニュース番組がきっかけで起きた「貧困たたき」。放送後、「捏造だ」「本当の貧困ではない」などの批判や中傷がネット上で相次ぎました。貧困研究の第一人者である日本女子大名誉教授の岩田正美さんは「貧困はスナップショットのような生活の一場面ではとらえられないものだ」と言います。

「外食した日の翌日は1食抜いているかも」
―一連の問題をどう受け止めておられますか
 「まず前提として、この女子生徒と家族の暮らしがどうだったのかは、ネットに散らばる断片情報ではわからないし、判断はできません」
 「ただ例えば、ひとり親家庭の母親が、生活が苦しくても無理をして子どもに『いいもの』を着せていることがあります。それは子どもは普通にさせたい、仲間はずれになってほしくないという気持ちや、そういう買い物で、日頃の苦しい生活の鬱屈を晴らすといった行動の結果かも知れません。」
 「むろん、現代では衣類などは格安ショップなどで割と安く手に入るし、貧困状態になる前に購入していた家財もあるでしょう。外食した日の翌日は1食抜いて埋め合わせていることがあるかも知れません」
 「こうした場合、スナップショット的にとらえれば『貧困ではない』ように見えることがあります。しかし継続的に見てみると、生活が安定していないことが分かるかも知れません」

――貧困の実態は「ぱっと見」ではとらえられないということでしょうか
 「表面から分からないことが多いでしょう。このところ『〜の貧困』という括りが広がっているので、何かあるとその枠にはめたがる傾向があります。他方で、そうするとその枠に当てはまるかどうかの白黒をつけようとします」
 「世間もメディアもある時点で、特定の人の貧困テストをしてしまうのです。もちろん、公的制度の利用においては、公式の判定プロセスがありますから、制度が決めた貧困は、そのプロセスによって明らかになります」
 「しかし実際には、貧困線を一本引くとして、その下だけが困窮していて、その上は全く困っていないということではありません。分厚いボーダーラインの不安定層があるのです。線というより帯のようなとらえ方をしたほうがよいかもしれません」

――そうしたグレーゾーンを含めて、「最低限度の暮らし」をどう考えればよいのでしょう
 「最低限度の暮らしとは何かという問いかけは実はとても難しい質問です。あってはならない貧困とは何かは、絶対的であると同時に、最終的には社会が決める相対的なものだからです」
 「衣食住の欠乏とよくいいますが、水や空気を除けば、衣食住の欠乏という絶対的なものの内容も相対的にしか決められないのです」

――時代や社会によって変動する線引きを考えるときに難しいのは具体的にはどんな点なのでしょう
 「所得が低くなると、私たちは何よりも食べることを優先するように考えられています。ただ現代では、特に若い世代にとって携帯などの通信費は、場合によっては食費以上の必須費用といっても良いと思います」
 「ツイッターやLINEなどのSNSも友人とのコミュニケーションでは不可欠でしょう。食費でも、時には友人とランチするという内容になるかもしれません。そうしないと人間関係が維持できないからです」
 「高齢者だと、香典や孫などへの贈り物等が、食費より優先する場合も少なくありません。葬儀へ参列するにはわずかでもお金を包んでいかないといけない。それをしないと、人間関係は切れてしまう」

――社会的な関係を保つための支出ですね
 「こうした支出をどのレベルまで許容するかは、貧困ラインを考えるときの難しい問題です」
 「私たちは社会で生きていますから、社会関係を維持しようとすればそうした社会関係費はどうしても必要となります。それらを支出したから貧困ではないということではありません」
 「もうひとつ、私たちは高度消費社会を生きています。このなかで貧困世帯であっても、完全につましく、清く生きようというのは並大抵のことではありません」
 「借金の誘惑は日常的なものですし、収入以上の買い物が出来てしまう仕組みがあります。家計のバランスを保つのは大変難しく、その破綻から貧困がさらに拡大することも少なくありません」

――今回の問題に限らず、貧困層に対する支援への批判、バッシングがときにわき起こります。貧困支援への理解を広げ、社会の溝を埋めていくために、どんな取り組みが必要でしょうか。
 「貧困とは何かという線引きは難しいですが、重要です。貧困はどのぐらいあり、政策によって改善したのかどうかを政府が把握する指標でもあります」
 「ただ貧困を解決する手法として、貧困かどうかのテストをしないと利用できない選別的な手法をとるか、そうした選別をしない普遍的な支援方法をとるかは、手法上の選択の問題だということを理解する必要があると思います」
 「とくに子どもや若者の支援に関しては、貧困対策というくくり方にこだわらず、できるだけ選別的ではない普遍的な支援を目指すべきだろうと考えています。そうすれば、この子の家は貧困なのか、貧困じゃないのかという線引き論争を避けることができます」

「バッシングしている人や家族にも利益がある」
――具体的には?
 「その一つが学校給食の無償化です。情報機器の格差は所得格差につながりますから、パソコンなどの情報端末も所得にかかわらず全員の子どもに一人一台貸与するべきだと思います。給付型の奨学金の拡充も重要です」
 「すべての子どもに恩恵が及ぶ支援を広げることが、結果として貧困の子どもを救うことにつながります。貧困対策ではない貧困対策です」
 「そして普遍的な支援であれば、いま貧困バッシングしている人や家族にも利益があります。自分も使える、あるいは使ったことがあるということになります。自分の家族も使える支援制度の設計が、結果として貧困バッシングを減らすことにつながると思います」
 「その費用ですが、累進的な所得税を当てることによって、所得の高い人からは、その利益分の払い戻しをして貰えば良いわけです」

 自分のことを言えば、服装はここ何十年もほとんど新しく買っていないし、スマホはもっていない(ただし、自宅のLAN環境からスマホアプリは使える)、LINEなんて触ったことも無い、社会的な関係なんて言われても、電話でも手紙でもなんでもあるし、最近の学校のいじめや自殺、最近起きた奇怪な殺人事件でも、その社会関係装置(SNS)によって増長された面があるように思う。
 そして、スマホの維持費などは結構な金額になるし、私などの古い発想では本当に必要なものなのかは疑問だ。
 どこかに書いたが、本当に緊急性の在るときにスマホは便利だが、どう見てもそのほとんどの利用は生産性に関係は無い。
 友達を作れるにしても、あれほどあわただしければ、関係の深化はさせにくいように思う。
 まぁ、私は時代遅れなんだということなんだろうね。

 変なことを書くけれども、上にここ何十年も着ている服(トレーナー)は安売り品だったのだけれども、最近(といっても数年前買ったもの)のより長持ちしている。
 いわゆる、設計が上手になったり、消費の転回が早いのでそれに合わせて品質をあわせているのかもしれないけれども、何か違和感を感じるんだよね。
 上の記事でも、生活で必要と煽られて、本来いらないものにお金を出したり、また、それを持ってないと同年代や近隣の人から阻害(いじめ)されてしまう「そういう社会」の方が病んでいるのではないのかな?

 まぁ、私、下着や靴下に穴が開いていたりしても「見えなきゃいいや」なんて考えだから仕方ないかな。
 うん、もう一度この記事を読み返すと、なるほど、若い人は大変だね、貧乏な格好や暮らしも許してもらえない社会になっているんだね。
 そんなことを増長させて利益を得ている大人たちがいることに気づいた方がいいよ。 
 あ、そうそう、皆がそんな生活したら、ね、デフレになるからやめた方がいいよ、と時の政府は思うのだろうね。

 そういえば、この前八百屋で野菜買ったら、結構値引きしてくれた、姿かたちからして「貧乏」だと思われたのかな?
 まぁ、確かに貧乏だけれども、楽しく暮らしているところもある。