110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

弁証法はどういう科学か(三浦つとむ著)

 発刊日を見ると1994年で、実際に本書が始めて出版されたのは1955年で、その時は「非常な歓迎を受けた」と書いてある。
 約50年前の著作だ。
 「弁証法」という言葉は知っているが、内容は説明できないなぁ・・・という事が頭をよぎったので読み始めた。
 以前は、どちらかと言うと、マルクスの影響で買っておいたのだと思うが、今回は、ヘーゲルからマルクスという関連に興味を持ったから手にしたのだ思う。
 しかし、ヘーゲルは観念論的弁証法として早々に片付けて、マルクス唯物論弁証法の説明から、来るべき「社会主義(国家)」の理想の説明へと論理は展開します。
 多分、今、何の基礎知識も無く、初めて本書を読む人は、フィクションだと思ってしまうかもしれません。
 でも、それに、興味をもたれた時代があったのです。
 
 読み進むと、その唯物論弁証法形式主義構造主義というものの区別があいまいだったりします。
 また、発展段階として、矛盾を含む段階を経由して、最適なものに発展していくという論理なのですが(すなわち、資本主義は社会主義へと発展する)、この場合の、「社会主義」というものが、「正しい」もしくは「善」という価値判断は、(現在から見ると結果的にといってしまえるかもしれませんが)唯物論弁証法の論理体系の中で「判定できない」のではないかと思います。
 これについては、ゲーデルの定理を出して、構想主義を批判した柄谷行人氏の著作の指摘に共通するものがあると思います。
 更に言えば、「社会主義」が「正しい」と判断するのは、本書で否定した「形而上的」な考え方ですが、本書の中では「社会主義」は「正しい」という暗黙のリズムの中で論理が進みます。
 
 さて、それでは、唯物論弁証法は間違っているのでしょうか?
 それは、結果的な事例はありますが、軽率な判断をすることは「未だ」早いかもしれません。
 実は、時間と機会があれば「資本論」を読んでみたいと(ちらと)思っています。
 
 そして、現実の政治(統治)と理想とはあきらかな違いがあります。
 これは、本書の中でも指摘されています。
 そして、本書が嫌った「形而上学」の旗手である「プラトン」も国家論を提唱しています。
 そのプラトンの「国家」で提唱した「哲学者による統治」とマルクスが考えた事、また、そのイデオロギーを継承した人たちには何が共通で、何が異なったのでしょう?
 そんな事を考えてしまいました。