ヘーゲル・大人のなりかた(西研著)
どうしても「ポストモダン」という言葉が引っかかる。
本書を読み始めたの訳は、実は3つある。
.櫂好肇皀瀬鵑砲弔い特里蠅燭った事(序章で触れていた)。
◆嵎枉數,呂匹ΔいΣ奮悗(三浦つとむ著)」では、マルクスを中心に説明して、ヘーゲルについては「観念論」として一蹴していたこと、余りにも簡単に扱われていたので、かえって気になった事。
残念なことに(私にとっては良い事ですが)本書が安かった(\105)事
本書の中でチェックしたのは、
「しかしヘーゲルが強調する理性や普遍性は、ポスト・モダニズムを含む「現代思想」の側から厳しい非難を浴びてきた。<私たちは自分という場所からしか物事を経験できない。物事を客観的に眺めおろせるような普遍的で特権的な場所などは、どこにも存在しない。だから、普遍的な真理なども存在しない。ヘーゲルは、理性というかたちで普遍的真理を獲得できる特権的な場所を設定しようとしたけれど、そんなものは原理的に不可能である。これは結局、特定の立場を普遍的といつわってそれを人々に強制することになる>」
でも、西さんはヘーゲルに対して否定的ではないのです。
「ぼくは、こんなことを考えるときがある。『神様(お天道様)がいて、私を見ていてくださる』。そう信じられることは、どんなに人間を楽にしただろうか、と」
素朴な表現ですがこういう考え方は好きです。
哲学という「学問」の立場から、宗教という「超越」したものに足を突っ込むのかという境界線上で考えなければならない様に思うが、学問としての「合理性」の層(レイヤー)と「形而上的(超越的?)」な層は、違う視点のように思う。
それにしても「ポストモダン」とはなんだろうか?
本書を読み始めたの訳は、実は3つある。
.櫂好肇皀瀬鵑砲弔い特里蠅燭った事(序章で触れていた)。
◆嵎枉數,呂匹ΔいΣ奮悗(三浦つとむ著)」では、マルクスを中心に説明して、ヘーゲルについては「観念論」として一蹴していたこと、余りにも簡単に扱われていたので、かえって気になった事。
残念なことに(私にとっては良い事ですが)本書が安かった(\105)事
本書の中でチェックしたのは、
「しかしヘーゲルが強調する理性や普遍性は、ポスト・モダニズムを含む「現代思想」の側から厳しい非難を浴びてきた。<私たちは自分という場所からしか物事を経験できない。物事を客観的に眺めおろせるような普遍的で特権的な場所などは、どこにも存在しない。だから、普遍的な真理なども存在しない。ヘーゲルは、理性というかたちで普遍的真理を獲得できる特権的な場所を設定しようとしたけれど、そんなものは原理的に不可能である。これは結局、特定の立場を普遍的といつわってそれを人々に強制することになる>」
でも、西さんはヘーゲルに対して否定的ではないのです。
「ぼくは、こんなことを考えるときがある。『神様(お天道様)がいて、私を見ていてくださる』。そう信じられることは、どんなに人間を楽にしただろうか、と」
素朴な表現ですがこういう考え方は好きです。
哲学という「学問」の立場から、宗教という「超越」したものに足を突っ込むのかという境界線上で考えなければならない様に思うが、学問としての「合理性」の層(レイヤー)と「形而上的(超越的?)」な層は、違う視点のように思う。
それにしても「ポストモダン」とはなんだろうか?