武器よさらば(ヘミングウェイ著)
名作ですね。
読まれた方も多い事でしょう。
ヘミングウェイは、彼の生きてきた時代を描くので、時代的に「過去のもの」というイメージもあるのかもしれませんが。
個人的には、いわゆる、平和と戦争、生と死、天国と地獄のような、明確な対比が、複雑に交錯するという世界があるように思います。
死に一番近いと思われる「戦場」では、却って「生き生き」としているのに、前線からの撤退、そして憲兵隊の将兵の銃殺、そして軍からの逃亡、恋人との再会、そして国境線を越えるという、ある意味「極限状況」を脱して、「彼岸の地」である、スイスに入国する。
しかし、その幸せな状況に中に「死」が組み込まれている。
何か「無常感」が漂う作品であります。
最終「第五編」は、何故これほど短かったのでしょう?
それは、写実的なヘミングウェイの描写で、フレデリックの、その後の、たぶん内省的にならざるを得ない「心理描写」に適さないと判断したためでしょうか?
私的には「誰がために・・・」の方が、ある意味「思想的(哲学的)」で好きなところがありますが、本作でもこんな表現に(私的にですが)注目しました。
94歳のグレッフィ伯爵とビリヤードをする場面で、
「実際のところ、この戦争をどうお考えですか?とぼくはたずねた。
「愚かなことだと思います」
「どっちが勝つでしょうか?」
「イタリアでしょうね」
「なぜですか?」
「イタリアのほうが若い国民だからです」
「いつも若い国民のほうが戦争に勝つんですか?」
「しばらくのあいだは、そういうことになるでしょうな」
「それから、どうなるんですか?」
「老いた国民になります」
「さっきあなたはご自分を賢明ではないおっしゃいましたが・・・」
「こんなのは知恵じゃ知りません(「ありません」かな)。犬儒主義(シニシズム)です」
・・・
作者の意図は、私には判らないですが、こんなところに面白い考え方を発見しました。
読まれた方も多い事でしょう。
ヘミングウェイは、彼の生きてきた時代を描くので、時代的に「過去のもの」というイメージもあるのかもしれませんが。
個人的には、いわゆる、平和と戦争、生と死、天国と地獄のような、明確な対比が、複雑に交錯するという世界があるように思います。
死に一番近いと思われる「戦場」では、却って「生き生き」としているのに、前線からの撤退、そして憲兵隊の将兵の銃殺、そして軍からの逃亡、恋人との再会、そして国境線を越えるという、ある意味「極限状況」を脱して、「彼岸の地」である、スイスに入国する。
しかし、その幸せな状況に中に「死」が組み込まれている。
何か「無常感」が漂う作品であります。
最終「第五編」は、何故これほど短かったのでしょう?
それは、写実的なヘミングウェイの描写で、フレデリックの、その後の、たぶん内省的にならざるを得ない「心理描写」に適さないと判断したためでしょうか?
私的には「誰がために・・・」の方が、ある意味「思想的(哲学的)」で好きなところがありますが、本作でもこんな表現に(私的にですが)注目しました。
94歳のグレッフィ伯爵とビリヤードをする場面で、
「実際のところ、この戦争をどうお考えですか?とぼくはたずねた。
「愚かなことだと思います」
「どっちが勝つでしょうか?」
「イタリアでしょうね」
「なぜですか?」
「イタリアのほうが若い国民だからです」
「いつも若い国民のほうが戦争に勝つんですか?」
「しばらくのあいだは、そういうことになるでしょうな」
「それから、どうなるんですか?」
「老いた国民になります」
「さっきあなたはご自分を賢明ではないおっしゃいましたが・・・」
「こんなのは知恵じゃ知りません(「ありません」かな)。犬儒主義(シニシズム)です」
・・・
作者の意図は、私には判らないですが、こんなところに面白い考え方を発見しました。