110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

形而上学入門(ハイデッガー著)

 ハイデッガーと言う哲学者は、いろいろと批判されるところもあるようだ。
 ところが、たまたま、読み始めた本書は(私的には)非常に気に入った。
 
 本書の底流は、ある意味、禅問答のような「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないか?」という問いかけであり、この問に答えると言う展開をする。
 (この本を読んでいて、坂口尚の「VERSION」という漫画を思い出した。)
 私は、哲学のテキストを深く読解する力はまだ無いと思うので、幼稚な論理展開だと思われても致し方ないが、例えば「存在者」と言うものが超越的(形而上)に存在するという事象、それは「イデア」であったり「神」であったりする事を、ここまで読んできて「疑問」に思わないとすると、そこには、本書で指摘する問題の「罠」に既に陥っているという事になる。
 「存在者」というものと、「存在」という事を考えるとき、本来は「存在」が先にあり、様々な思索の上で「存在者」という概念が形作られた、それは、ある意味哲学的な思索の上に考えられた事でもある。
 しかしながら、そもそも、本質的な「存在」が先にあったにも拘らず、それが何時しか、後に理念化された「存在者」によって「存在」させられているという、(因果)関係の逆転が行われている。
 そして、その逆転現象の上に、現在の文明、歴史が作られているのではないかという事を問いかけているように思う。

(ちなみに、坂口氏の「VERSION」では、言葉(ロゴス)によって、それぞれのモノ(存在)に名前を与える事で「何か」を失っているのではないか?と問いかける。そして(深読みかもしれないが)、言葉によるカテゴリー分けをする事で(言葉に違和感を感じるかもしれないが)「差別」や「闘争」という事が引き起こされるのではないかと問いかけているように思う。・・・という少年向き漫画だ。)
 
 (脱線してしまったが)私が読んだところの、本書の結論としては、その為には、この「存在」がそのままの意味で定義できた(感覚的なものだと思うが)古代にまでさかのぼって、もう一度(思索)をやり直さねばならないのではないか?という問いかけになっている。
 東洋的な「無」の思想に近いものも本書の中にを感じるが、ハイデッカー氏は、そこに東洋的な要素を取り入れて、回避しようとする事を拒否している。
 あくまで、その「分岐点」まで後戻りして「道」を辿りなおす事を提唱している。
 それは、直感的に「無理(困難)」な話であろう。
 しかし、もし、道に迷っているのならば、だれでも言うように、一度、判るところまで引き返すのが一番の近道でもあるのだ。