羽村の堰へ行く(2007年4月21日の歩き)
「羽村の堰」までは、以前一度歩いています、しかしながら、前回は、既にあたりは暗くなっており、「いったいどれが羽村の堰か?」だったので、今回は、再挑戦等という事になりました。
実際、多摩川沿いのコースはお気に入りなのですが、世田谷区(二子多摩川など)から入ると、意外に距離が出るので、今回は、「日野橋」までは、国道20号で行き、立川市から、昭島市、福生市、羽村市と、多摩川沿いを歩きました。
実際、多摩川沿いのコースはお気に入りなのですが、世田谷区(二子多摩川など)から入ると、意外に距離が出るので、今回は、「日野橋」までは、国道20号で行き、立川市から、昭島市、福生市、羽村市と、多摩川沿いを歩きました。
出発は、8時23分
新青梅街道に出て、丸山陸橋を左折、環七に入ります。
環七を入って、杉並区に入り、更に、青梅街道を越えると「[http://www.yakuyoke.or.jp/ 妙法寺]」があります。
新青梅街道に出て、丸山陸橋を左折、環七に入ります。
環七を入って、杉並区に入り、更に、青梅街道を越えると「[http://www.yakuyoke.or.jp/ 妙法寺]」があります。
そう言えば、お参りしたことがなかったので、お参りします。
正面の門が古さを感じさせました。 さて、先に進んで大原交差点に出ます。
①大原交差点(国道20号出会)10時8分、11,513歩
さて、この後、「日野橋」までは、国道20号線を歩いて行けば良い。
途中、16kmの距離標識のあるところで、この様な看板がありました。
さて、この後、「日野橋」までは、国道20号線を歩いて行けば良い。
途中、16kmの距離標識のあるところで、この様な看板がありました。
甲州道中一里塚跡
江戸時代、五街道のひとつであった甲州中(街道)は、江戸日本橋を起点として、内藤新宿、高井戸、府中、八王子、甲府を経て上諏訪に至り、つぎの下諏訪で中山道に合するようになっていました。
この街道を利用した諸大名は、信州高嶋藩、同高遠藩、同飯田藩の三藩でした。また甲府には、江戸幕府の甲府勤番がおり、幕府諸役人の往来もありました。
この場所の前方、高速道路下に、日本橋から数えて四里目(約16キロメートル)を示す「一里塚」がありました。
当時の旅人はこの「一里塚」を見て、道程を知り、駄賃などの支払いをしました。
塚は五間(約9メートル)四方、高さ一丈(約3メートル)を基準として土を盛り上げて築き、榎が植えてありました。
昭和54年2月1日 杉並教育委員会
これだけの交通量のある道に、一里塚を保存するのは難しいだろうなと思います。江戸時代、五街道のひとつであった甲州中(街道)は、江戸日本橋を起点として、内藤新宿、高井戸、府中、八王子、甲府を経て上諏訪に至り、つぎの下諏訪で中山道に合するようになっていました。
この街道を利用した諸大名は、信州高嶋藩、同高遠藩、同飯田藩の三藩でした。また甲府には、江戸幕府の甲府勤番がおり、幕府諸役人の往来もありました。
この場所の前方、高速道路下に、日本橋から数えて四里目(約16キロメートル)を示す「一里塚」がありました。
当時の旅人はこの「一里塚」を見て、道程を知り、駄賃などの支払いをしました。
塚は五間(約9メートル)四方、高さ一丈(約3メートル)を基準として土を盛り上げて築き、榎が植えてありました。
昭和54年2月1日 杉並教育委員会
さて、この後「高井戸」を越えて、世田谷区、調布市と入ります。
「多摩川」から分かれる川に「野川」がありますが、丁度「馬橋」を渡ったところで「菜の花」が見えました、しかし、まだ咲き誇るというところまでではないです。
そして、調布駅の2駅前「国領駅」付近に「國領神社」というのがありました。こんな解説があります。
もう少し、歩くと「調布駅」です。
「多摩川」から分かれる川に「野川」がありますが、丁度「馬橋」を渡ったところで「菜の花」が見えました、しかし、まだ咲き誇るというところまでではないです。
そして、調布駅の2駅前「国領駅」付近に「國領神社」というのがありました。こんな解説があります。
神社名 國領神社
主祭神名 神産巣日神(カミムスビノカミ)
由緒 この神社は、国領神社(こくりょうじんじゃ)といい、鎌倉時代(1192-1333)の頃、多摩川の畔、杉森の地に鎮座していたが、たび重なる洪水のため、国領町一四八番地(現八雲台一丁目)に鎮守の社として遷座された。
昭和三十七年に、八雲神明社境内(現在地)に御社殿を造営合祀し、社名を國領神社と総称する。
氏子区域は、国領町、八雲台、染地地区におよぶ。境内の藤の木(調布市八景の一)は昔より千年の藤と云われ、よく延び繁るので、不二(無事)に通じ災厄を防ぎ、延命、子産、商売繁盛の神木として名高い。
北多摩神道青年会
なんとなく、地元に根づいている神社という印象でした。主祭神名 神産巣日神(カミムスビノカミ)
由緒 この神社は、国領神社(こくりょうじんじゃ)といい、鎌倉時代(1192-1333)の頃、多摩川の畔、杉森の地に鎮座していたが、たび重なる洪水のため、国領町一四八番地(現八雲台一丁目)に鎮守の社として遷座された。
昭和三十七年に、八雲神明社境内(現在地)に御社殿を造営合祀し、社名を國領神社と総称する。
氏子区域は、国領町、八雲台、染地地区におよぶ。境内の藤の木(調布市八景の一)は昔より千年の藤と云われ、よく延び繁るので、不二(無事)に通じ災厄を防ぎ、延命、子産、商売繁盛の神木として名高い。
北多摩神道青年会
もう少し、歩くと「調布駅」です。
②調布駅入り口 12時16分,25,950歩
丁度「電気通信大」のところです。
それから、少し行って「味の素スタジアム」(飛田給駅付近)のところが、東京オリンピックのマラソンの折り返し地点(1964年10月21日)。
さらに、少し進み、府中市に入って、小金井街道の少し手前に、50Km競歩の折り返し点があります(1964年10月18日)。
丁度「電気通信大」のところです。
それから、少し行って「味の素スタジアム」(飛田給駅付近)のところが、東京オリンピックのマラソンの折り返し地点(1964年10月21日)。
さらに、少し進み、府中市に入って、小金井街道の少し手前に、50Km競歩の折り返し点があります(1964年10月18日)。
そして「府中駅」へ出ます。
さて、もう少し行き、西府町のあたりに「熊野神社」があります。ここには「古墳」があるということした(上円下方墳)。
その後、国立市を抜け、立川市に入ります。
そして「日野橋」信号を左折します。
実際の「日野橋」は、信号より数百メートル進んだところ(「立川市営野球場前」信号)にあります。
画像の右下「たま川」の看板のあたりから下って多摩川沿いに出ます。
そして「日野橋」信号を左折します。
実際の「日野橋」は、信号より数百メートル進んだところ(「立川市営野球場前」信号)にあります。
画像の右下「たま川」の看板のあたりから下って多摩川沿いに出ます。
そして、その後福生市の公園から、奥多摩の山並みが見えます。
夕暮れの光景です(17時20分頃)、画像の丁度真ん中の山は「大岳山(1,266m)」です。
別の角度の画像がこれです。
目の前の橋は「永田橋」だと思います。
夕暮れの光景です(17時20分頃)、画像の丁度真ん中の山は「大岳山(1,266m)」です。
別の角度の画像がこれです。
目の前の橋は「永田橋」だと思います。
そして、「羽村の堰」到着しました。