110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

真理とディスクール(ミシェル・フーコー著)

 久しぶりに、フーコーの作品を読む。

 しかも、晩年に近いところは、自分に対峙する問題なので、注目していたところだ。
 さて、「パレーシア」という言葉があり、「真理を語る」という意味なのだが、この言葉を「要」として、ギリシャ悲劇から、ソクラテスプラトンローマ帝国時代の哲学(ストア派)の時代ごとに、代表的なの著作(著述)での「パレーシア」の意味を解釈し、それが、どのように意味的に変遷し、どのように「パレーシア」を実現、もしくは対応したかを解き明かしている。
 ここで、私的には考えたのは、この「パレーシア」の解釈を巡り、なぜ古典の時代に遡ったのかだ。
 解説を読むと、「真理」というものの追求するうちに、論理的に真理(真偽)を判断する要素と共に、「パレーシア」という真理を語るという要素が出てきて、この様な学術的な分析を行ったということだ。
 しかし、哲学者はいかに「知を愛するもの」でも、古典で終わりでは無いはずだと思う、何か、現代に通じる道のりがあったのではないかと思う。
 また、キリスト教の勃興する、直前で本講義が終わっている事は、あくまで、自己の考え方や自己の真理というものにこだわったからとも考えられる。
 そういう面で、見ると、一部東洋思想(中国やインド)的なものと(考え方として)交差する部分があった。
 「パレーシア」なる言葉と共に、プラトンの対話編やストア派の著作などを見直してみようかとも思った。