110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

言葉についての対話(マルティン・ハイデガー著)

 日本人は、殆どの人が日本語を話し読み書きをすることができる言われる。
 私は、漢字の読み書きは自信がないのだが・・・
 しかしながら、私的には、今とても、気になることがある。
 本当に日本語を分かって(いや「判って」が適切なのか?)いるのだろうか?
 ・・・このような具合だ。

 このことに気づいたのが、最近の読書だ。
 特に、海外の著者の哲学書(の翻訳したもの)を読み始めると、非常に細かい注釈がつき、どういう言葉を、どのように翻訳したかが明記されている。
 もちろん、ドイツ語、フランス語、更には、英語も「不得手」な私は、そんな事、どうでもいいと「無知」を決め込んだ。
 そういうのは、「学者・先生にお任せすれば良い」、ということで、例えば、先回の木田元氏の著作などを読むと「××の言葉の訳がまずくて意味が通じない」という様な意味のことが書いてある。
 それ見たことか、流石に、日本の知識人はレベルが高い。
 となる。
 それは、それで、私のレベルとしては良いのだが、まずい事に気づいた、そもそもの「日本語」が上手く使えなくなっている様な気がしてきた。
 
 本書を読むと、以前から問題になっている「存在」「存在者」の問題が出てくるが、それを伝えるための、そして理解するための「言語」いや「ことば」の問題が出てくる。
 ハイデッガーは、ご存知のとおり、プラトンの時代まで遡ってその意味を追求した。
 そして、ある言葉の解釈の「躓き」が、現在の西洋の思想に(大きな)影響を及ぼしていると考察した。

 それならば、日本語も、遡ると「何か」が起こる可能性があるのだろうか。
 それは、いわゆる「古語」を知る事ではなく「言葉」の(本書の解説には「葉」ではなく「端」すなわち、「ことの端」だと書いてあったが、いやむしろ「言霊」の方がリアルに思う)解釈で、「ありあり」と「ぎらぎら」(決して「まったり」ではない)世界を感じる事ができるかもしれないなぁ・・・と斯様に思った。
 現在は、言葉の代わりの手段(道具・媒体・画像?)が出てきているので、言葉というものの位置づけが低くなっているように思う。
 しかし、人間は元来「言葉」で考えて(思考)いるという事に思いを巡らすと(もしかすると、21世紀に生まれた人の脳ミソは、既に進化して違うのかもしれないが)、ある種の感慨と、一抹の不安を感じる。
 足元の、日本語をきちんとしなければ、しかも、本当の基礎を。