「ゴッtド」は神か上帝か(柳父章著)
本書は筑摩書房1988年刊行の「ゴッドと上帝-歴史のなかの翻訳者」を改題し、岩波現代文庫版化(2001年)したもの。
この著者は「翻訳の思想(ちくま学芸文庫)で虜になった。
基本的には、翻訳におけるそれぞれの言語の差を追求するものだが、その小さな(言葉の解釈の)差が大きな社会現象にまで拡大されてしまうことがあるという、そうそう、バタフライ効果のような本なのだ。
さて、内容は、アヘン戦争のころ中国に派遣された宣教師が、様々な支援や苦労をしながら、聖書を中国語に翻訳したのだが、そのとき「ゴッド」をどう翻訳したのか?
それが問題であった。
そもそも、神であろうと上帝であろうと、すでに中国語としてあった「GODに類似する言葉の概念」を当てはめるということは、一神教のキリスト教ということを考えると矛盾になる。
しかし、そこに言葉を当てはめざるを得ないとすると、その当てはめた言葉・・・例えば神が、本書で著者が提案した言葉「カセット効果」を発揮することがある。
すなわち、本来の意味以上に過大な評価をもって伝わる(逆にマイナスの効果のときもあるとの事)のだ、そして、その果てに、太平天国という歴史的事象に導かれていく思想的要因にもなるというのだ。
たかが、言葉ではあるが侮れないのだ、そして、著者はあくまで翻訳という立場を崩さないが、それは、同一言語内でも起こる可能性があると思う。
さて、また脱線だが、本書の「鏡覿技佞遼殘?彖曄廚痢5.中国語訳聖書と日本語訳聖書」という章があるのだが、ここでの話題が、山本夏彦「完本文語文」のとある内容に近いのだ。
発刊の時期からすると、本書のほうが先のようだが、目の付け所が同じなので思わず驚いてしまった(もしかすると、参照してるかもしれないのだが、いまのところ未確認・・・不精)。
日本はある意味(宿命的かもしれないが)翻訳文化なので、だれかの誤訳が結果として大変なことになるかもしれない・・・(そういえば、第二次大戦開戦前にアメリカに傍受されていた日本語が余りに難しくて、それを誤訳したために非常に先入観をうえつけたとどこかの本に書いてあったが)まぁ、今はバイリンガルの人も増えたので大丈夫なのかもしれないなぁ?
この著者は「翻訳の思想(ちくま学芸文庫)で虜になった。
基本的には、翻訳におけるそれぞれの言語の差を追求するものだが、その小さな(言葉の解釈の)差が大きな社会現象にまで拡大されてしまうことがあるという、そうそう、バタフライ効果のような本なのだ。
さて、内容は、アヘン戦争のころ中国に派遣された宣教師が、様々な支援や苦労をしながら、聖書を中国語に翻訳したのだが、そのとき「ゴッド」をどう翻訳したのか?
それが問題であった。
そもそも、神であろうと上帝であろうと、すでに中国語としてあった「GODに類似する言葉の概念」を当てはめるということは、一神教のキリスト教ということを考えると矛盾になる。
しかし、そこに言葉を当てはめざるを得ないとすると、その当てはめた言葉・・・例えば神が、本書で著者が提案した言葉「カセット効果」を発揮することがある。
すなわち、本来の意味以上に過大な評価をもって伝わる(逆にマイナスの効果のときもあるとの事)のだ、そして、その果てに、太平天国という歴史的事象に導かれていく思想的要因にもなるというのだ。
たかが、言葉ではあるが侮れないのだ、そして、著者はあくまで翻訳という立場を崩さないが、それは、同一言語内でも起こる可能性があると思う。
さて、また脱線だが、本書の「鏡覿技佞遼殘?彖曄廚痢5.中国語訳聖書と日本語訳聖書」という章があるのだが、ここでの話題が、山本夏彦「完本文語文」のとある内容に近いのだ。
発刊の時期からすると、本書のほうが先のようだが、目の付け所が同じなので思わず驚いてしまった(もしかすると、参照してるかもしれないのだが、いまのところ未確認・・・不精)。
日本はある意味(宿命的かもしれないが)翻訳文化なので、だれかの誤訳が結果として大変なことになるかもしれない・・・(そういえば、第二次大戦開戦前にアメリカに傍受されていた日本語が余りに難しくて、それを誤訳したために非常に先入観をうえつけたとどこかの本に書いてあったが)まぁ、今はバイリンガルの人も増えたので大丈夫なのかもしれないなぁ?