110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

意味の深みへ(井筒敏彦著)

 「意識と本質」は良い本だったので、井筒氏の他の著作があれば読んでみたいと思っていた。

 本書は、「言語」について、その「意味」を探求していくという事が、全体を通しての論じられる一つの柱になる。
 まず、異文化、異言語間でのコミュニケーションが可能かについて論じられるが、これは、最近私も感じているように、いかに、翻訳者が優れていても、そのテキストの書かれた言葉を理解しないと、解釈には限界があると思う、これは、フーコーハイデッガーなどの欧州の哲学者の、ギリシャ語やラテン語の解釈について考えれば、(事象的)に頷ける事だと思う。
 ここで、井筒氏は「言語アラヤ識」という「唯識」の考え方を援用して、発音できる言葉や文字の前に、それの元になる「種子」があるという考え方を提唱し、東洋哲学的に異言語コミュニケーションの難しさを説明する。
 その後、西洋的の言語中心主義を批判する、デリダの考え方を概観する論文があり、専門家ではないとしつつも、私にとっては、その考え方を分かりやすく解説してくれる良い機会になった。
 デリダは、「テクスト」という言葉が「存在」であり「生」である、生きる事は、この「テキスト」に追加の書き込み(エクリチュ-ル)をすることだという説明があった。
 ご存知の方には「何を今さら」という事だが、大変面白い視点だと思った。
 さらに、パロール話し言葉)とエクリチュ-ル(書き言葉)の優劣について、言及しているが、一般的には、「パロール(話す)」が先に表れ、その下に「エクリチュール(書く)」という風にとらえがちだが、実際はその逆で、「書き言葉」に重点がおかれている。
 それは、デリダが定義した「エクリチュール」が、通常の「書く」という意味だけでなく、いわゆる「記憶される」という側面を持っているからだと考えられる。
 すなわち、ある言葉が、書かれる(記憶される)ことで、その後の、思考に影響を及ぼす可能性を内包しているからだ。
 最近「言葉」というものの「怖さ」について考えているが、何気ない一言を長い事覚えていたり、考え方の原点にしている人は、意外と多いのではないかと思う、それと同じように「恨み」を含む言葉も長い事「記憶される」し、現実に「書き込まれる」と、場合によっては世代を超えて、思想が持ち越されることがある(ローマ帝国が、最後にキリスト教に飲み込まれるという事例)。
 現代の社会では「いかに雄弁に自分の意志を伝える事ができるか」は非常に重要な世渡り能力だが、それがエスカレートし、話し手の意志としては「軽い気持ちでも」つい「失礼な言葉」を発してしまい、聞き手のその後の思考に(深い)影響を与えてしまうことがあるのではないか?と考えている。
 左様に「言葉」は、軽く扱う事ができないのだと思うのだが、最近の文章や言葉の氾濫については、少し危機感がある(まぁ、読書する人も少なくなっているので、根源的に考えると、良いのかも知れないが)。
 次に、言葉の解釈についての論文があったが、これも「言語アラヤ識」のような、いわゆる具体的に個物を示すものから、段階を経て抽象化され、最後は、意味や存在自体の境界が崩壊して、混沌(もしくは無)に帰着するという論旨があった。
 すなわち、言葉の意味は固定的なものなのかという疑問に対する或る意味の答えになっていると思う。
 それは、言葉(どちらかというと思想)が、まったく正反対の意味に使われてしまう様なことが現実に
起こりえる(プラトンの哲人君主論を考えた)。
 それは「どうしてなのか」ということに対する或る意味での回答になると思う。
 (思想の捻じ曲げについては、もっと下世話な力関係(政治など)に起因している事も多いのだろうが)

 他にも、いくつか論文はあったが、私的にはこんなところだ。
 やはり、日本語で考える上は、東洋思想に向かう事が必要なのかもしれない。
 次は「唯識」か(たぶん、回り道すると思うが)?