声と現象(ジャック・デリダ著)
デリダの著作を上げられるのは嬉しいことです。
ただ、とても「読んだ」とは言えません、最後までたどり着いたというところでしょう。
フッサールの「現象学」に対する批判・検証ですから、大元の「現象学」が分からないと、どうにもならないというところですから、やっと3回目の挑戦で、終わりまで行けたというのは、当然の結果でしょうね(笑)。
さて、細かいところは追いきれませんが、確か「現象学」というのが、基本的に「主観」に基づいて論理展開がされていたと思います(独我論とまで言われています)。
これに対して、いわゆる主観だけで捉えられない、いわゆる「(論理の)裂け目」があるのではないかというところを追求するわけです。
本書の表題は、現象学という主観的、「内的」な要素の中に、「声」という「現存在」で「外的」な要素があるという事を象徴的に著している。
また、その根本には、論理展開を言葉を元に行うという、ある意味自明なな事の中に潜む、「不明瞭性」がある事を指し示しているようだ。
さて、初回の読み込みとしてはこのような所まです。
今後、もっと深く読めるように精進いたします。
ただ、とても「読んだ」とは言えません、最後までたどり着いたというところでしょう。
フッサールの「現象学」に対する批判・検証ですから、大元の「現象学」が分からないと、どうにもならないというところですから、やっと3回目の挑戦で、終わりまで行けたというのは、当然の結果でしょうね(笑)。
さて、細かいところは追いきれませんが、確か「現象学」というのが、基本的に「主観」に基づいて論理展開がされていたと思います(独我論とまで言われています)。
これに対して、いわゆる主観だけで捉えられない、いわゆる「(論理の)裂け目」があるのではないかというところを追求するわけです。
本書の表題は、現象学という主観的、「内的」な要素の中に、「声」という「現存在」で「外的」な要素があるという事を象徴的に著している。
また、その根本には、論理展開を言葉を元に行うという、ある意味自明なな事の中に潜む、「不明瞭性」がある事を指し示しているようだ。
さて、初回の読み込みとしてはこのような所まです。
今後、もっと深く読めるように精進いたします。