110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

ヴェーユの哲学講義(シモーヌ・ヴェーユ著)

 ヴェーユがロアンヌ女子高等中学で1933年10月から、翌年6月まで行った講義を、生徒のひとり、アンヌ・レーノー=ゲリトーが筆記したもの。
 ここでは、ヴェーユは「教育指導要綱」とは別の独自の見解で講義を行っている。
 当初、第一部を読むと哲学の基礎的な事をやっていくのかと思うと、第二部「社会学」から俄然面白くなる。
 善とか正義とは全て自分の判断によるものであり、社会は抑圧をするものとされるものを生み出しているという、現実的な判断。
 そして、それが学校の授業として行われるところに、ある意味先見的であり、そのため、抗議の継続が出来なくなった要因がある様だ(ただ、一学期分でもその講義録が残った事は私にとっては幸運だった)。

 さて、その中からこんなところをチェックした。
たしかに、遠くにいる人に幸福をもたらしながら近くにいる人には不幸をもたらすとき、そこにはどのような連帯も共感も存在しません。私たちはみんな人間を踏みつけにして生きているくせに、そのことについては考えてみようともしません。そのことを思い出すためには特別な努力が必要です。いつもは簡単に忘れてしまう事柄にたいして自分の注意を向けておくために払う、稀にしかなされぬにせよ賞賛に値する努力は、自分にたいして誠実であろうとする意志からくるものであって、共感をとおしてもたらされるものではありません。こうした努力は結局ひとつの苦悩にいきつくもののです。

 あとはこのようなところ。
《人は徳を証明する事はできません。》徳は証拠の証拠であると言えるだけです。
人は徳を証明しようとするたびに、《精神の価値》を証明する事になります。証拠というものは仮説のうえに成り立ち、その仮説は《とうぜん論証不能な思考の持つ価値》のうえに成り立つものだからです。

 最近の世の中について、ヴェーユが生存していた頃と変わらない基盤の上に(もしかすると、もっと巧妙に進化して)あるのかなと思ってしまう。