110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

日本経済の傷口を広げるのは、新型コロナへの「過剰な恐怖心」

表題のような記事があった、何回かの連載の第一回目らしい、以下に引用してみる。

日本経済の傷口を広げるのは、新型コロナへの「過剰な恐怖心」
コロナ後の未来年表(1)河合 雅司

新型コロナウイルス感染拡大により雇用情勢や出産環境が悪化し、来年出生する子供の数は大幅に減る見通しとなった。だが、出生数の大幅低下だけではなく、高齢者を中心とした「過剰な恐怖心」に基づく消費行動の委縮が、少子高齢化問題をより深刻にし、日本経済を負のスパイラルへ向かわせると、ベストセラー『未来の年表』シリーズ著者で、ジャーナリストの河合雅司氏は指摘する。日本経済を復活させるにはどうすればよいのか?

戦後最悪の落ち込みか?
想定されていたこととはいえ、新型コロナウイルスの感染拡大が日本経済に与えた傷は深い。
2020年4~6月期のGDP国内総生産)を見ると、物価変動の影響を除いた実質で前期比7.9%減である。このペースが1年続くと仮定した年率換算にすると、マイナス28.1%となる。
このままならばリーマン・ショック直後(2009年1~3月期)の年率17.8%を上回り、戦後最悪の落ち込みとなる。
昨年10月の消費税率引き上げで景気が失速していたというタイミングの悪さもあったが、GDP過半数個人消費が占めるという産業構造が要因となって大きな痛手となったのだ。
日本企業の多くは、内需で利益を上げてきた。人口減少に頭を悩ませていたところに、コロナ禍による外出自粛や移動制限で、突如としてその少なくなる「消費者」も消えてしまった。
7~9月期は反転するとの見方も強いが、感染収束の見込みは立っていない。内需減少の穴埋め策として期待してきた外国人観光客にも、当分は頼れない。需要が「コロナ前」の水準まで回復するのは、かなり先となりそうだ。

 

冷え込む高齢者の消費マインド
そんな日本経済の回復にとって、大きな足枷となりそうなのが高齢化である。
高齢になるほど、新型コロナの「重症化リスク」が大きくなる。そしてそれゆえの〈過剰な恐怖心〉が、高齢者の消費マインドを冷やしてしまっているのだ。感染症に対して高齢社会は実に脆い。コロナ不況を語るには、この影響を軽んじてはならないのである。
総務書の家計調査(2人以上の世帯)を確認しよう。政府の非常事態宣言が発令されていた4月、65歳以上の消費支出は21万7751円であった。前年同月と比べて12.7%減、実額にして3万1563円の減少である。
さらに細かく見ると、65~74歳は12.7%減の23万5550円(前年同月比3万4360円マイナス)、75歳以上は13.5%減の19万3366円(3万248円マイナス)だ。
最新データである8月を見ても、4月よりわずかながら改善は見られたものの、冷え込みは続いており、65歳以上は、前年同月比8.0%減の23万9979円(2万943円マイナス)である。
65~74歳は9.4%減の25万8388円(2万6756円マイナス)、75歳以上は5.2%減の21万8206円(1万1990円マイナス)であった。
とりわけ旅行費や交際のための食事代などで落ち込みが激しく、65~74歳の「パック旅行費」は前年同月比で95.6%減となっている。

 

旺盛な消費をする3人に1人は高齢者
命の危険と隣り合わせの高齢者が〈自衛〉するのは当然であるが、行動範囲が極端に狭まり、自宅周辺に〈隠遁生活〉の如く閉じこもってしまっている人も珍しくない。
ちなみに、8月の25~34歳の消費支出は5.7%増の27万9654円で、1万5197円増えた。50代は2.3%の減少だ。やはり高齢者の消費マインドの冷え込みが際立つ。
高齢者個々の減り幅は多額ではないが、問題はその人口のボリュームの大きさだ。
日本の高齢者はいまや3600万人を超え、高齢化率(総人口に占める高齢者の割合)は世界最高の28.7%を占める。分母を20歳以上として計算し直すと、34.4%だ。
大雑把に言えば、旺盛な消費をする人の3人に1人が高齢者なのである。ここまでボリュームが大きくなると、高齢者の消費マインドの冷え込みを無視できない。
高齢者の消費支出が、仮に「10%」落ち込み続けたならば、国内マーケットが360万人縮むのと同じである。その衝撃度は小さくない。

 

社会の柔軟性が削がれる
〈過剰な恐怖心〉を持つ人は、若者にもいる。「自粛警察」や感染者に対する差別といった暴挙は論外としても、ムードや集団心理に流される人は少なくない。
多くは他人の目が気にし、自分たちが主催する集まりやイベントで、「もし集団感染が発生したら、誰かから後ろ指をさされるのではないか……」と不安になる。
ひとたび組織内で同調圧力が高まったならば、誰も反論できなくなってしまう。「withコロナ」といった言葉など耳が寄せ付けず、自分たちの責任回避ばかりに奔走し始める。
そして、関係する人々が積み重ねてきた努力などお構いなしに、イベントや講演の中止や無期限の延期を決めてしまうのだ。感染者がほとんど出ていない地域や感染リスクが極めて低いケースにまで、そのような一律の対応を求めていくことにもなる。
中学・高校の全国大会や行事が相次いで中止となったが、工夫をすればできたものもあったのではないのか。生涯で一度しかないチャンスを逃した子供たちの気持ちを考えるとやるせない。
なるべく穏便に、無難にやり過ごそうという発想の人が増えてきたこと自体が、日本社会の高年齢化を示すものだ。少子化とは、社会の柔軟性を削ぐことでもある。


過剰反応は傷を広げる
総人口の縮小への対応だけでも大変なのに、〈過剰な恐怖心〉を抱く人々が増えて消費を冷え込ませたならば、マーケットはダブルで縮むことになる。
その結果として、企業の業績が低迷し若者の雇用情勢がさらに悪化すれば、結婚や妊娠・出産を先送りする人が多くなり、少子化も加速する。
こうした何重もの負のスパイラルに陥ったとしたら、日本は人口減少問題に太刀打ちできなくなるだろう。いよいよ不況からも脱出できなくなる。
感染症への向き合い方は人それぞれではあるが、過剰反応を繰り返していたのでは日本経済の傷口は広がるばかりだ。自ら首を絞め、日本人自身が不況を作り出しているようなものである。これは同時に、人口減少に備える残り時間を減らすことでもある。
〈過剰な恐怖心〉を排していくことが、高齢化した日本社会には不可欠なのだ。
厚労省の人口動態統計によれば、新型コロナへの感染以外の理由も含めた1~7月の死亡数の総計は79万6000人弱だ。これは前年の同期間と比べて1万7998人も減少している。新型コロナによる死亡数は、多くの国に比べて低水準である。
だからといって、感染症対策を無視して積極的な消費行動に出るよう奨励するつもりなど毛頭ない。マスクや手洗い、「3密」の回避など多くの感染予防策が分かってきているのだから、こうした感染症対策を徹底すればよいだけのことだ。
人混みの中に出かけても、ただちに感染するわけではない。密閉空間に行かないように気をつければ、大方は問題ない。
スポーツイベントやコンサートでも観客が声を出さずに手拍子などで盛り上がる工夫はいくらでも考えられよう。ムードが出ないというなら、事前に録音しておいた「過去の歓声」をBGMのようにスピーカーから流せばよい。
そもそも観客が大声を出さない映画やクラシックコンサート、文化講演会など、時差を設けての入退場を徹底すればよいのではないのか。
会食についてもマスクを外して至近距離で会話をするから、感染リスクが大きくなるのである。多少面倒でも、会話をするたびにマスクを着用することだ。

 

感染症との闘いは続く
〈過剰な恐怖心〉の解消は、将来に向けても重要である。新型コロナに限った話ではないからだ。
新型コロナの感染拡大はやがて収束するだろう。だが、今世紀に入ってからだけでも、未知の感染症は相次ぎ見つかっている。21世紀は「感染症の世紀」であると認識すべきなのだ。
背景の1つに、世界人口の急速な拡大に伴う地球規模での乱開発が続いていることがある。山奥や密林に生息する動物などを宿主としていたウイルスとの接触機会が圧倒的に増えた。
しかも人々が世界中を簡単に移動できるようになり、その運び屋となっている。われわれは「コロナ後」も新たな感染症との闘いが続くと覚悟しておいたほうがよい。

 

「やるための方策」を探す努力を
繰り返し感染症が起きる状況は、少子高齢化が進行して行く日本にとって深刻である。もっと高齢者が増えた時代に新たな感染症が蔓延したならば、重症者の数が多数となることもさることながら、消費マインドは今回と比べものにならないほど冷え込むだろう。
われわれは、感染症を「正しく恐れる」ための知識と術を一刻も早く身に付け、社会のマインドを変えていかなければならない。
政府は現在、「GO TOトラベル」など目先の景気刺激策に取り組んでいる。現在、生活が困窮している人は多く、支援の手を差し伸べることが重要であることは言うまでもない。
だが、ここまで述べてきた日本の「構造的な弱点」を放置したならば、人口が本格的に減少してしまう前に、国家が衰退するという取り返しのつかない事態をも招きかねない。
必要以上に日本を縮小させないためにも、「やらない理由」を探すよりも、「やるための方策」を探す努力が求められている。

 気になることは、どうしても、社会一般と言うマクロな視点と、ここで焦点となる、高齢者の個人的な視点が、どうしても折り合わないということだ。

本編も、消費の1/3を担う高齢者が自粛すると経済の落ち込みが大変なことになるから、自粛しないでね、ということがポイントで、一応、感染対策は努力はしますよ・・・と、おまけをつけているように見えるのだ。

高齢者側はそれを見てどう思うのだろうか、やっぱり不安なんで自粛すると思う人もいるだろうし、子供の将来のために、普段通り、いや、普段以上に消費しようと思う人もいるだろう。

でも、一番考えてしまうのは、他の人はどう思っているのかだと思うのだ、今は、コメントなどで様々な意見を簡単に見ることができる、じゃぁ、このコロナ禍に対して、高齢者の処遇を様々な人はどう見ているのだろうか・・・と?

さらに言えば、高齢者に対してネガティブな意見は、絶対数が少なくても、当の高齢者にとっては拡大されて認識されると思う。

そういう風に世の中のコメントを探ると、結構な頻度で、重傷者は高齢者が多く、亡くなっても、平均寿命に近いのだから構わない・・・というのを多数見た。

高齢者に対して、何か悪意を抱いている人はかなり存在しているのではなかろうかと予想されるのだ。

しかし、消費の1/3を担う人々に対して、「死んでも良いが、消費はしろ」では、個人としては動けない、社会的を信頼することができないだろう。

実は、今回のコロナ禍の問題は、政府など行政は、感染者の拡大に合わせて医療崩壊の防止などある程度高齢者への対応を念頭しているのに対して、世論のうち、結構な数の経済促進派が、高齢者対策を無視した発言をしているところが厄介なところでもある。

また、そういう極論を信じてしまう人もいる、極論に浸るのは面倒くさくないしね。

そして、経済が衰退すれば自殺者が増える、その自殺者が、新型コロナ感染による死亡者、特に高齢者の死者よりも多くなる可能性があるのだから、感染対策を緩和して、経済を回せ、という理屈を声高に語り始める。

それが本音のところだろう、それは、自分は苦しいから、他人はどうでも良いということになってしまう。

特に周りに高齢者がいない人は、簡単に高齢者を敵視できる、具体的なイメージがないからだ。

この記事で問題にしている「過剰な恐怖心」は、新型コロナウィルスに対しての感染・重症化・死という、文字通りの「(感染)恐怖心」だけではなく、高齢者はコロナに罹って死んでも良いのだという考えをしている人が、どうも多数潜在しているという人間への「恐怖心」があるのだと思われる(高齢の親を介護している身としては、人間への恐怖心がほとんどだ)。

その点を、社会はどう埋めていくのだろうか、興味はある。 

 

ちなみに、「国家の衰退」は既に起こっている、コロナ禍で加速はされるだろうが、戻れるわけでもない、その中でどう適応していくのかが大事なことだと思う。

20世紀はアジア諸国にとって日本は羨望の的だったのかもしれない、しかし、21世紀は、日本がアジア諸国を嫉視するような局面も出てくるだろう、それをどう抑えて、平常でいられるかが重要だと思う。