110円の知性

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民主的な選挙でも現職が勝つ確率が圧倒的に高く、政権交代はめったに起らない。それでも選挙に行く理由とは?【橘玲の日々刻々】

民主的な選挙でも現職が勝つ確率が圧倒的に高く、政権交代はめったに起らない。それでも選挙に行く理由とは?【橘玲の日々刻々】
11/4(木) 21:01配信 ダイヤモンド・ザイ
 先日行なわれた衆院選は、大物議員の落選があったものの自民党が単独で絶対安定多数を確保し、議席増確実といわれていた立憲民主が逆に議席を減らし、維新の会が躍進するなど、メディア各社の事前の予想とは異なる結果となった。とはいえ、この選挙で政権が代わると思ったひとは誰もおらず、予定調和ななりゆきともいえるだろう。それを反映してか投票率も低調で、芸能人らによる「選挙に行こう」キャンペーンが話題になったものの、55.93%と戦後3倍目に低い数字だった。
 ところで、わたしたちはなぜ選挙に行くのだろうか?  これについてはアメリカの政治学イリヤ・ソミンの「政治的無知」説を紹介した。
 ソミンによると、国政選挙の一票の価値はほぼゼロなので、有権者は候補者についてなにも知らないまま義務的に投票するか、スポーツファンのように選挙をエンタテインメントとして(あるいは自らのアイデンティティの証明として)「部族的・党派的」に投票するかのどちらかだという。
 これは説得力はあるものの、ずいぶんと後ろ向きの論理に思える。そこで、同じアメリカの政治学者であるアダム・プシェヴォスキの『それでも選挙に行く理由』(白水社)を手に取ってみた。原題は“Why Bother with Elections? ”で、「選挙はなぜ悩ましいのか? 」という感じだろうか。4年ぶりの衆院選に合わせ、「選挙」の意味を考えたい読者に向けたよい邦題になっている。
 プシェヴォスキは1940年ポーランドに生まれ、ワルシャワ大学を卒業したあと1960年代にアメリカに留学して博士号を取得、シカゴ大学教授などを経て現在はニューヨーク大学政治学部長。ちなみにソミンも旧ソ連に生まれ、アメリカで高等教育を受けている。アメリカで活躍する旧ソ連・東欧出身の政治学者2人が、ともに「民主的な選挙に正当な根拠があるのか」について論じているのは興味深い。

●現職が常に有利なのは「選挙はほとんどの場合操作されている」から
 歴史上はじめてすべての成年男子が選挙権をもって任期付きの代表を選ぶ国政レベルの選挙が実施されたのは1788年、歴史上はじめて選挙で政権交代が実現したのは1801年で、どちらもアメリカの出来事だった。
 アメリカを民主国家として設計した「創始者」たちは、「自分たちが選んだ法律によって縛られているとき、われわれは自由である」という啓蒙主義を信じていた。だがそれと同時に、きわめて大きな不安を抱えていたとプシェヴォスキはいう。それは、自分たち富裕層の資産や既得権を、どうやって貧困層から守るかという問題だった。なぜなら、金持ちより貧乏人のほうが圧倒的に多いのだから。
 その結果、初期の民主改革は、選挙権や被選挙権の制限(政治に参加できるのは有産階級の成人男性のみ)、任命制の上院(貴族院)による拒否権の行使、公開投票や間接投票(米大統領選のように選挙人をまず選んで、選挙人が大統領を決める)のような障壁によってがんじがらめにされていた。その唯一の目的は、「金持ちの財産を多数派による支配から守るため」だ。
 三権分立とりわけ司法の独立も、多数派の暴走を「法の支配」によって牽制する仕組みだった。中央銀行が政府とは独立に金融政策を決定するというルールも、多数派が際限のないばらまきで国家(富裕層)の富を破壊するのを防ぐためにつくられた。
 現状を変えるのに必要な支持の割合を高くするのが「超多数派制度」で、二院制のもとで権力をもつ「超多数派」になるには(現代アメリカでは)75%の支持が必要になる。多数派の決定権を、選挙で選ばれていない裁判所や中央銀行で制限するのは「反多数派制度」で、これらを組み合わせて、民主国家の政府はたいしたことができない(現状維持を優先する)ように設計されている。権力の監視と相互抑止のシステムによって、トランプのようなポピュリストが大統領の座についても、自由にふるまうことがほとんどできなかったのだ。
 代議制が確立されてから150年以上経過した20世紀後半になってようやく、西欧諸国で普遍的な選挙権が拡がっていく。これは一般に、革命の脅威、あるいは社会不安への対応だとされる。「政治から排除された者が革命を起こす恐れがあるため、たとえ政治的権利を共有することがエリートにとってのコストとなるとしても、エリートは革命のリスクよりもコストを選んだ」というのだ。だがそれ以外にも、既得権層の一部が政争に勝つために、党派的な理由で選挙権を拡大したという事情もあるだろう。
 しかし普通選挙が実現しても、現職が選挙で勝つ確率は一貫して高い。1788年から2008年のあいだ行なわれた2949回の選挙のうち2315回、つまり79%(4対1のオッズ比)の確率で現職が勝利した。政権交代が起こったのは544回で、これは4.75回の選挙につき1回という頻度だ。
 2008年の時点で、中国とロシアを含む68カ国では選挙の結果として政権交代が起こったことがない。「現職の敗北や平和裡の政権交代がみられた選挙は、ごく最近の現象」なのだ。
 なぜ現職はつねに有利なのか。それは「選挙はほとんどの場合操作されている」からだ。権力を掌握した与党多数派は、選挙ルールを操作し、国家機関を利用し、国家財政を使い、さらにはこれらがすべて失敗した場合でも選挙結果に手を加えることができる。中国は共産党独裁の権威主義国家だが、民主的な国もその実態は「新しい」「競争的な」「ソフトな」権威主義なのだ。

●民主的な選挙によって経済格差の縮小を望むのは原理的に不可能
 「選挙になにを期待できるのか」という問いに対して、プシェヴォスキはあっさりと、「一般意思」「共通善」「公益」「国家理性」などというものは幻想にすぎないと切り捨てる。
 集合知(集団的知能)はたしかにあり得るが、これは「すべての参加者にとって正しいひとつの答がある」ときにしか成立しない。だがますます複雑化する現代社会では、誰もが同意する唯一の解は存在しない。「利害や価値観が対立している場合、投票による意思決定が合理的になることは一般的に期待されない」のだ。
 多数決には「集団的な不満を最小化する」効果があるが、これ(ハンス・ケルゼンの「自律性」)はひとびとが単一の争点に投票する場合にのみに当てはまる。複数の争点を組み合わせた場合、ケネス・アローが「不可能性定理」で示したように、すべての投票者にとっての最適な決定は存在しない(より正確には、「投票者に3つ以上の独立した選択肢が存在する場合、どのような投票制度も、個々人の選好の総計から社会全体の選好を得ることはできない」)。
 とはいえ、世襲、共謀、武力によるものなど、その他のメカニズムで選ばれた支配者は、誰も望まないような方法で統治できるが、選挙で選ばれた統治者は、ある程度、多数派の要望に従わなければならない。権力が制約されている分だけ、民主政には優位性がある。
 中位投票者定理では、もっとも多くの票を獲得しようとする候補者は、「選考分布の中央に位置する有権者」の利益を最大化しようとする。
 日本人の個人金融資産は1900兆円で、働く世帯の平均貯蓄額は過去最高の1378万円、中央値は826万円だが、貯蓄額が100万円に満たない世帯も全体の11%ある(総務省家計調査2021年)。このような場合、貧困層や富裕層に有利な政策を掲げると、大半の有権者が不利になるため得票が見込めない。当選者1名の小選挙区制では平均的な有権者の支持が必要なので、すべての政党が中央値(資産826万円)の世帯に有利な政策を掲げるようになるだろう。
 日本の場合、自民党が「リベラル」な経済政策(新しい資本主義)を掲げる岸田政権に代わり、立憲民主党の経済政策とほとんどちがいがなくなった。すべての政党が「分配」を約束するなど、中位投票者定理の予想どおりになったようにも見える。だがプシェヴォスキは、世界の民主国家のデータを見るかぎり、この理論的予測は満たされないという。
 中位投票者定理では、富裕層から中間層へと富が移転されるはずだから、経済格差は小さくなるはずだ。だが実際には、所得の不平等は政治体制がちがっていてもあまり差がない。一人あたり所得がどのレベルであっても、民主政のほうが独裁より不平等の程度が低いというわけではない。
 さらに奇妙なのは、民主的な政府においては、「所得の不平等が非常に低いところから中程度に上昇すると、政府は税制や政府移転によって所得を再分配するが、すでに不平等の程度が高い場合には、不平等が進むと逆に再分配が少なくなる」ことだ。つまり、ゆたかな民主国家ほど経済格差が大きくなるのだ。
 これについてプシェヴォスキは、「経済的に不平等な社会では、人びとが政治的に平等ではないことが、再分配が進まない主たる理由」だとする。いったん所得格差がある程度以上に大きくなると、政治的不平等も大きくなるので、多数派が再分配を望んだとしても富裕層が政治を支配し、再分配の割合は低下する。経済的不平等は政治的不平等をもたらし、政治的不平等は富裕層に有利な政府政策をもたらすので、経済的不平等は永遠に続くことになるのだという。
 だとすれば、民主的な選挙によって経済格差の縮小を望むのは原理的に不可能だ。「市場機能は、所得分配の「ニュートン力学的」法則として、所得の不平等を増大させる効果を持つ」が、民主政にはこの力学を反転させるちからはないのだ。

●民主的な選挙の重要な機能は「政治的暴力の抑止」
 政治のメカニズムは、「その国における所有構造、市場、政軍関係、社会・民族・宗教的な分断、価値観や伝統などの、社会のあり方の一部として埋め込まれている」のだから、どのような政治のメカニズムにおいても、できることは社会状況によって制限されている。政府は全能でも全知でもなく、独裁政や貴族政など、それ以外の支配者選択のメカニズムが生み出せない結果を民主政(デモクラシー)が生み出せると期待すべきではないとプシェヴォスキは強調する。
 だとしたら、わたしたちはなんのために選挙に行くのか?  それは、民主的な選挙に重要な機能があるからだ。それが「政治的暴力の抑止」だ。
 すべての有権者が同じ程度に武装している社会では、投票分布は紛争の結果の近似値になる。その場合、選挙の勝者は敗者に対して、紛争のコストを払うことなく、「これが力の分布である。選挙の結果が伝える支持に従わなければ、暴力的な対決で私を倒す可能性よりも、私がお前に打ち勝つ可能性のほうが高いだろう」と告げることができる。だがその勝者も、過度な収奪をしたりすれば次の選挙で権力を失うかもしれないという制約を科されている。選挙は、「支配の限界を明らかにすることで政治的暴力を減らす」のだ。――これをプシェヴォスキは、選挙は「ルールのある紛争、すなわち殺戮のない紛争」で、投票用紙とは「紙でできた石つぶて」だという。
 だがこの「暴力抑制効果」には、ひとつ重要な条件がある。それは「現職やその支持者が選挙に負けることに大した意味がないこと、つまり選挙の「賭け金」が高すぎないこと」だ。
 プーチンが権力に固執するのは、ひとたび選挙で敗北するとなにもかも失うことがわかっているからだ。ロシアの野党は、プーチンが法律を破り、不正蓄財をし、チェチェン戦争を劇化させる口実としてモスクワのビルを爆破したと非難している。こうした批判がどれほど正しいかは別として、その目的がプーチンを破滅させることだというのははっきりしている。この状況では選挙の「賭け金」が法外に高くなるため、プーチンにとっては、どんなことをしてでも「勝ちつづける」以外に選択肢がなくなっている。
 2020年の米大統領選の直後に、トランプの熱狂的な支持者たちが連邦議会議事堂を襲撃するという前代未聞の事件が起きたが、これも選挙の「賭け金」が例外的に高かったからだとプシェヴォスキはいう。トランプ(地位と権力)だけでなく支持者(アイデンティティ)にとっても、この選挙で負けることで失うものが法外に大きくなり、それを守るために手段を選ばなくなったのだ。
 選挙の最大の価値は、「社会のあらゆる対立を暴力に頼ることなく、自由と平和のうちに処理する」ことにある。だがそのためには、選挙において「賭け」られているもの(勝った側の政策と負けた側がもし勝っていたら追求しただろう政策との差)が、少なすぎても多すぎてもよくない。選挙は、「その結果如何で失うものが大きくないとき、また、競合する政治勢力が敗退は致命的でないことを経験を通じて学ぶとき、紛争を平和裡に処理する」ことができるのだ。

有権者は自分の投票に価値があると「錯覚」するからこそ、敗者も統治に服することに同意する
 一般的に、選挙の結果によって生じる効用差は、所得が高くなれば小さくなる。これは、「一人あたりの所得が高い国や、一国のなかでの高所得層にとっては、どのような選挙結果でも大差ない」ということだ。
 プシェヴォスキはこの単純な事実から、「気に入らない政党の選挙での勝利は、民主主義の危機では決してない」と悲観論に釘を刺す。ファシズムの時代は現在に比べて悲惨なほど貧しかったのだから、ナチス(日本なら「戦前」)を引き合いに出して「いつか来た道」と不安を煽るべきではない。「アメリカのように一人あたりの所得が高い国で、民主主義が完全に崩壊するのはまったくの想像の範囲外」だし、これは日本も同じだろう。
 欧米など多くの民主国家の混乱は、「弱い政党の激しい党派性」だとされる。私の言葉でいうなら、「リベラル化・グローバル化・知識社会化」という巨大な潮流から脱落した「下級国民」が徒党を組んで過激化しているのだ。フランスのジレジョーヌ(黄色ベスト)デモが典型だが、こうした抗議に正当な理由があるとしても、たび重なる譲歩は安定した政策実施を不可能にする。多くの国が、このジレンマで身動きがとれなくなっている。
 政治家は与野党問わず、有権者の期待を満たすためにできることはほとんどないとわかっていても、選挙戦で政府に対する期待を盛り立てなければならない。「候補者が、高失業率、低賃金、地域の治安を改善するためにできることなど何もないと、有権者に語りかける姿を想像してみてほしい。そのような政治家は1票も獲得できないだろう」とプシェヴォスキはいう。同様に有権者は、政治家にできることはほとんどないのではないかと疑っていても、政治家に希望を与えてほしいと考えている。
 しかし現実には、政府ができることには限りがある。なぜなら、「何をするのが最善かは誰にもわからないことが多く、政府もまたわかっていないからである。政府は、何をしてよいかわからないときでも何もしない贅沢は許されないという、残念な境遇にある」のだ。
 だったら抽選でもいいではないかと思うかもしれないが、そこには重大なちがいがある。有権者は自分の投票に価値があると「錯覚」するからこそ、敗者も統治に服することに同意する。権力は選挙によって正統性を与えられるのであり、支配の権限が抽選で決まれば、市民が政府に従う理由はなくなる。
 興味深いのは、過度のチェック・アンド・バランス(権限分割)が政府による効果的な統治を不可能にするとプシェヴォスキが考えていることだ。二院制のアメリカでは、3分の2の支持といった超多数派を獲得しなければ政策・立法が困難で、債務上限をめぐる混乱のような事態を引き起こしている。だがこれは、いったん超多数派を獲得すれば、立法府、執政府、司法府などすべての機関を支配して過激な行為に走ることができるということでもある。
 実証的な分析では、スウェーデンやイギリスのようなチェック・アンド・バランスがほとんどない(単純な多数派主義の)国のほうが、アメリカのようにガバナンスにおける制度が分断されている国に比べて、政策の揺らぎが激しくならず、権利侵害の可能性も低いという。日本では権力のチェック・アンド・バランスはよいことだとされるが、「制度的に、制限を設けることを支持する主張には理論的にも実証的にも説得力がない」とされる。
 選挙はいつでも私たちの希望を再燃させる。選挙を手伝ったり投票したりすることで、自分たちの価値観や利益を前進させることができるとつねに願っている。
 しかし実際は、選挙とは、「良い政府、合理性、正義、発展、平等など、私たちが望むものを何でも与えてくれるメカニズムではなく、異なる選好を持つ人びとが何らかのルールに従って争いを処理する場所にすぎない」。
 ひとびとが異なる関心と価値観をもっている社会では、選挙を通じて合理性や「正義」を求めるのは無意味だ。民主的な選挙でも現職が勝つ確率が圧倒的に高く、政権交代はめったに起らない。仮に政権が代わっても政府にできることはほとんどなく、経済格差は拡大する一方で、社会の深刻な分裂を修復することもできない。
 しかしそれでも、統治する者を選ぶにあたり、選挙よりましな方法はない。投票権があることで、投票結果を尊重する義務を人びとに課している。そして流血は、政権交代が期待できるという事実だけで回避される。
 あなたはたぶん満足しないだろうが、これが「それでも選挙に行く理由」のようだ。
 橘 玲(たちばな あきら)
  作家。著書に『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、など。最新刊は、『無理ゲー社会』 (小学館新書)。