110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

「テロリストの主張は仮に正論だとしても認めない」との態度を示すべきだ/倉山満

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苦しい論調、理解はできるのだが・・・

「テロリストの主張は仮に正論だとしても認めない」との態度を示すべきだ/倉山満
5/1(月) 8:52配信 週刊SPA!
―[言論ストロングスタイル]―

「なぜ人を殺してはならないのか」の説明には、必ず穴がある
 人を殺してはいけません。古今東西、どこの社会でも常識だ。
 ただし、絶対の正義ではない。「なぜ人を殺してはならないのか」の説明には、必ず穴がある。「いついかなる時も人を殺してはならないのか」と聞かれると、例外だらけだ。
 ここで幼稚な人間は「じゃあ、人を殺してもいいではないか」と言い出す。人を殺してはならない完璧な理由を言えない人間を論破した気になって、勝ち誇る。こういうガキンチョは叱り飛ばすしかない。
 では、人殺しを辞さない屁理屈屋を、どう叱り飛ばすか。「常識で考えろ」だ。常識とは、相対評価だ。

狂人とは、理性しかない人間のことだ
 一人で、「人を殺してはならない理由」を延々と考え続けて、「理由は無い」との結論になったとしよう。常識がある人間は、その結論を絶対化しない。「人を殺してはならない社会」と「人を殺してもよい社会」のどちらがマシか、と比較する。現状の日本は「人を殺してはならない社会」だ。少なくとも建前として確立している。それが今の日本が「人を殺してもよい社会」になる。どちらがマシかを考える。色々と問題があっても「人を殺してはならない社会」の方がマシと考えるのが普通の人間だが、異常な人間は常識で考えない。理屈だけで考える。
 狂人とは、理性が無い人間ではない。理性しかない人間のことだ。
 理屈でしかモノを考えられない人間は、「歴史の中での比較」との概念がない。その手合いの人間は、「人を殺してはならない」が人類の多数派になるのに、どれほどの時間がかかったか、歴史を考えたこともないだろうし、知らないだろう。
 理屈で考えれば、世の中には已(や)むに已(や)むを得ぬ殺人もあろう。だが、「已むに已むを得ぬ」を誰がどうやって判断するのか。

個人によるテロを許すとは、文明国をやめること
 現代でも「人を殺しても良い」とされる状況はある。たとえば戦争や死刑だ。あるいは正当防衛。いずれも、法に基づいている。国際法では、厳格な条件に従って、戦場での戦闘員の殺人は、免責される。死刑執行を犯罪に問う国は無いし、法で定められた条件で正当防衛による殺人は許容される。それらいずれにも共通しているのは、暴力を政府が独占している。あらゆる個人から暴力を取り上げ、私的制裁を許さない。
 この世から人殺しをなくすべきだが、現実には無くならない。だから国家の責任で秩序を守らねばならない。これが歴史から得られた教訓だ。「人を殺してはならない」が建前として成立している国、可能な限り実態が守られている国が、文明国だ。
 個人によるテロを許すとは、文明国をやめるということだ。今の文明国と非文明国、どちらがマトモか、考えるまでもない常識だ。これは理屈以前の価値観だ。あらゆる理屈も理性も、何らかの価値観に基づく。

私刑を許せば正論が通らない国になる
 現代日本でテロを賛美しているアホどもに、面と向かって聞いてみたい。「個人が気に入らない奴を殺して良い社会が素晴らしいか」と。この程度の常識が通じない社会は嘆かわしい、では済まない。
 戦前日本では、狂った言論が蔓延った。長引く不況ですさんだ人心、そこへ対外軟弱外交。トドメが二大政党の腐敗。それでいて当時の二大政党は強すぎて、何度選挙をやってもその権力は揺らがない。思いつめたテロリストは「もはや暗殺しかない」と、本当に政府要人へのテロを繰り返した。これを世論は誉めそやしてしまった。当然、模倣犯が続発する。あげく、政党政治を終わらせてしまった。結果、地獄に落ちた。正論が通らなくなった国になったからだ。テロリストどもが貧乏人救済を叫びながら、大不況を終わらせた高橋是清を暗殺するに及んでは、笑うに笑えない。

安倍元首相が統一教会の関係者なら殺してよかったのか?
 令和の現代。安倍晋三元首相の銃殺は記憶に新しい。
 下手人の山上某は、親が統一教会に財産を貢いで不幸な生い立ちだった。だからと言って、無関係な人間を殺して良い訳がないだろう。一部の言論人に「安倍首相は統一教会と関係があった」と強調し、あまつさえ「殺されて当然の人間だ」と愚説を垂れ流す人間もいる。では、安倍元首相が関係者なら殺してよかったのか?
 安倍元首相が統一教会の関係者だろうがなかろうが、殺してはならない。山上某には何の権利も無い。何の同情の余地なく、社会の片隅で刑に処すだけで良かったのだ。
 ところが、日本社会は誤った選択を行った。安倍元首相の暗殺を機に、統一教会叩きを始めた。統一叩きが悪いとは言っていない。もちろん、叩かれるべき理由があるなら、その弾圧は不当ではない。ただし、テロリストの思うように社会が動いてはならなかった。仮に統一叩きが必要なら、ほとぼりが冷めるのを待つべきだった。テロリストに目的を達せさせてはならなかったのだ。如何なる正論も、やり方を間違えれば狂気を呼ぶ。
 結果、今回の木村某。現職首相暗殺未遂事件を引き起こした。

テロリストの主張は仮に正論だとしても認めない
 木村の動機は、「選挙に出ようとしたが出られなかった」とか。25歳の被選挙権の年齢に達せず、供託金を用意できなかった。選管で刎ねられ、裁判で刎ねられ、二審の判決が出る前に凶行に及んだ。
 木村は「若者に被選挙権が無いのは法の下の平等に反する」とか身勝手な主張を訴えたそうだ。笑止。では、赤ん坊に選挙権与えるのか? 憲法は合理的区別を許容していると、誰か教えてくれなかったのか。

 ところが、「社会が対応すべきだ!」と言い張る愚か者がいる。今回の事件で日本社会は、被選挙権の引き下げを絶対に行ってはならない。私も被選挙権の引き下げに吝(やぶさ)かではないが、今回の騒動が落ち着く前には議論すらすべきではない。「テロリストの主張は通さない。仮にそれが正論だとしても認めない」との態度を示すべきだ。

山上も木村も可哀そうは理由にならない
 山上にしても木村にしても、可哀そうだからって何をやってもいい理由にはならない。苦しい境遇だって必死にまっとうな人生を歩んでいる人間はいくらでもいる。
 本欄は連載第1回から、若者が虐げられている社会に怒りをぶつけてきた。だからこそ言う。絶対に被選挙権の引き下げをやってはならない。
 人殺しやテロは不可。可哀そうは理由にならない。こんな簡単な常識が通らない。その結果、何が押し寄せるか、想像力を持て。
 小賢しい屁理屈ではなく、大人の常識を持つべきだ。社会が。
 ―[言論ストロングスタイル]― 
【倉山 満】
’73年、香川県生まれ。憲政史研究者。救国シンクタンク理事長兼所長。中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中より国士舘大学日本政教研究所非常勤職員を務め、’15年まで日本国憲法を教える。ネット放送局「チャンネルくらら」などを主宰し、「倉山塾」では塾長として、大日本帝国憲法や日本近現代史、政治外交についてなど幅広く学びの場を提供している。主著にベストセラーになった『嘘だらけシリーズ』や、『13歳からの「くにまもり」』を代表とする保守五部作(すべて扶桑社刊)などがある。『沈鬱の平成政治史』が発売中