2007年6月16日の歩き
6月に入り気温も上がってきました、歩いてもすぐ汗をかいてしまい、なんとなく億劫な時期ですが、ここを乗り切ると、体が(一まわり)痩せますので、(歩いている人はこの時期)頑張りましょう。
ちなみに、先週は週末雨降りでしたので、記録に残すほどまとまって歩けませんでした。
ちなみに、先週は週末雨降りでしたので、記録に残すほどまとまって歩けませんでした。
ちなみに、今回、小平市内で、後ろから来た自転車に右足を引掛けられてしまいました。
子供が運転していたのです。
そして、そのお母さんから「大丈夫ですか?」と聞かれましたが、回答できませんでした。
だって、この先何十キロ歩くのか分からないので、何処で影響出るか予想できないじゃないですか!!!
(という事で、結論として「大丈夫でした」という事で・・・・意外と丈夫な足に感心しました)
子供が運転していたのです。
そして、そのお母さんから「大丈夫ですか?」と聞かれましたが、回答できませんでした。
だって、この先何十キロ歩くのか分からないので、何処で影響出るか予想できないじゃないですか!!!
(という事で、結論として「大丈夫でした」という事で・・・・意外と丈夫な足に感心しました)
さて、その先「小平上宿」の信号で「立川通り」へ、そして「小川橋」のところから「玉川上水緑道(木々のなかを歩けますので、絶好の日よけになります)」を歩き「拝島駅」へ到着します。
さて、少し道を戻って、小平市の小川町の辺りに「青梅街道」の解説板がありました。
さて、少し道を戻って、小平市の小川町の辺りに「青梅街道」の解説板がありました。
青梅街道
慶長8年(1603)徳川家康が、江戸に幕府を開くにおよび、同11年(1606)から開始された江戸城の大改築に重要な資材であった白土(石灰)を、その産地である現在の青梅市成木・小曽木から江戸城に運搬するために使われた道がこの青梅街道で、別名成木街道ともいわれた。
この道は、起点を成木に発し、江戸城の裏木戸、半蔵門まで武蔵野の荒野30数キロメートルを一直線に切り開いてつくられたもので、途中、箱根ヶ崎・小川・田無・中野の4か所に馬継場が置かれた。
小川村の開発者小川九郎兵衛が、この地に馬継所を開設したのは明暦3年(1657)で、小川村開発の進展はこの馬継所の開設によるところが多く、正徳3年(1713)の頃には小川村に荷馬158頭が飼育されていたという記録がある。
小川町2丁目の旧小川6番組から8番組にかけて、今も道幅が広くなっているところが当時の馬継所の跡地である。
江戸城の改築は、家康・秀忠・家光の3代にわたって行われ、30年の歳月を要したといわれる。幕府御用の石灰輸送は大がかりなもので、大名行列に準じたと伝えられる。
上り下りの人馬でにぎわったこの街道も、寛政年間(1789~1801)新河岸川の水運が開けてからは、成木地方の物資は船輸送にかわるようになった。その後は、奥多摩地方の雑穀を四谷・中野方面の問屋に運ぶ交通路として使用された。
今では面影はほとんどないが、かつてこの街道の両側には新田特有の屋敷森が縁どり、夏はさわやかな木かげを投げかけ、冬は冷たい北風をさえぎっていたものである。
小平市教育委員会
小平市郷土研究会
いろいろこの手の説明文を読んできましたが、その中でも秀逸なものだと思いました。慶長8年(1603)徳川家康が、江戸に幕府を開くにおよび、同11年(1606)から開始された江戸城の大改築に重要な資材であった白土(石灰)を、その産地である現在の青梅市成木・小曽木から江戸城に運搬するために使われた道がこの青梅街道で、別名成木街道ともいわれた。
この道は、起点を成木に発し、江戸城の裏木戸、半蔵門まで武蔵野の荒野30数キロメートルを一直線に切り開いてつくられたもので、途中、箱根ヶ崎・小川・田無・中野の4か所に馬継場が置かれた。
小川村の開発者小川九郎兵衛が、この地に馬継所を開設したのは明暦3年(1657)で、小川村開発の進展はこの馬継所の開設によるところが多く、正徳3年(1713)の頃には小川村に荷馬158頭が飼育されていたという記録がある。
小川町2丁目の旧小川6番組から8番組にかけて、今も道幅が広くなっているところが当時の馬継所の跡地である。
江戸城の改築は、家康・秀忠・家光の3代にわたって行われ、30年の歳月を要したといわれる。幕府御用の石灰輸送は大がかりなもので、大名行列に準じたと伝えられる。
上り下りの人馬でにぎわったこの街道も、寛政年間(1789~1801)新河岸川の水運が開けてからは、成木地方の物資は船輸送にかわるようになった。その後は、奥多摩地方の雑穀を四谷・中野方面の問屋に運ぶ交通路として使用された。
今では面影はほとんどないが、かつてこの街道の両側には新田特有の屋敷森が縁どり、夏はさわやかな木かげを投げかけ、冬は冷たい北風をさえぎっていたものである。
小平市教育委員会
小平市郷土研究会
②拝島橋 13時39分、45,765歩
「羽村の堰」行きで何回か「下」をくぐりましたが、今回は橋の「上」から多摩川へ下りていきます。
今回の画像は、この多摩川の「初夏」を思わせる画像です。
そして、河川敷でスポーツをしている人、自転車でツーリングしている人、ジョギングの人、歩く人などを見ながら「日野橋」へ出ます。
「羽村の堰」行きで何回か「下」をくぐりましたが、今回は橋の「上」から多摩川へ下りていきます。
今回の画像は、この多摩川の「初夏」を思わせる画像です。
そして、河川敷でスポーツをしている人、自転車でツーリングしている人、ジョギングの人、歩く人などを見ながら「日野橋」へ出ます。
④東八道路出会(国分寺市西原町)15時57分、60,561歩
「東八道路」は広くて良い道です。
かなり、疲れているので「武蔵野公園」で小休止を取ったり、「野川公園」で「野川」沿いを歩くなどの気分転換をしながら、「一気に」とは行きませんが、三鷹市へ入ります。
「東八道路」は公園が多いので、歩くのに良い道だと思います。
さて、三鷹市に入りその後「吉祥寺通り」を利用して、「吉祥寺駅」を目指します。
「井の頭恩賜公園」の付近は、夕方になり人では少なくなっているはずですが、それでも歩きにくいですね。
表通りは人通りが多いので避けながら「吉祥寺駅」へ到着です。
「東八道路」は広くて良い道です。
かなり、疲れているので「武蔵野公園」で小休止を取ったり、「野川公園」で「野川」沿いを歩くなどの気分転換をしながら、「一気に」とは行きませんが、三鷹市へ入ります。
「東八道路」は公園が多いので、歩くのに良い道だと思います。
さて、三鷹市に入りその後「吉祥寺通り」を利用して、「吉祥寺駅」を目指します。
「井の頭恩賜公園」の付近は、夕方になり人では少なくなっているはずですが、それでも歩きにくいですね。
表通りは人通りが多いので避けながら「吉祥寺駅」へ到着です。
⑤吉祥寺駅(付近)18時53分、78,495歩
日が暮れてきましたが、まだ明るいです。
あとは、中野駅の方へ、いつもの散歩道を歩けば良いのですが、これがなかなか一苦労です。
意外と厳しいのが、お腹が減ってきたので「いいにおい」がすると、フラフラと誘い込まれそうに成る事です。
そんなこんなで、中野駅へ着きます。
日が暮れてきましたが、まだ明るいです。
あとは、中野駅の方へ、いつもの散歩道を歩けば良いのですが、これがなかなか一苦労です。
意外と厳しいのが、お腹が減ってきたので「いいにおい」がすると、フラフラと誘い込まれそうに成る事です。
そんなこんなで、中野駅へ着きます。
そして、帰宅が21時13分、93,098歩でした。
後で考えると、暑かったので、大量に「水分」を取りました、もう完全に「夏」モードです。
そんなわけで、お疲れ様でした。
後で考えると、暑かったので、大量に「水分」を取りました、もう完全に「夏」モードです。
そんなわけで、お疲れ様でした。