110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

読書について(ショウペンハウエル著)

 読書は人の思考で考える事になる、だから多読はすることなく自分で思考するのだ。
 という読書や思考についての小編を含むもの、しかし読んでいくと基本的には良い本(古典)を読むことを勧めている。
 この矛盾は何なのか?
 それは、ごく普通に、読書の基本能力能力があるものについては、読書の危険性を説いている、しかし、逆にそれの無いものは、良い本を読むことが必要だと説いているのだろう。
 ショウペンハウエルは、多少「厳しいな」という表現があるが、意外と優しい文章のような気がしてきた。
 本書で気になったのは「著作と文体」の中の以下の文章、

・・・「現代」の聡明な国語改良主義者の方策といえば、この切捨て法以外にはないのである。・・・彼らは妄想に取り付かれて、我々の思慮深い祖先がまったくの愚者で、無用な前綴を基本語に添加したのだと思いこみ、自分では前綴の所在に・・・気づきさえすれば、性急熱烈な構えで切り捨てるだけで、結構天才的にふるまっているつもりでいる。だが実際我々の国語に無意味な前綴は一つもない。・・・いくつかの言葉から前綴を切断すれば、一つの重大な事態を招く。すなわち国語の貧困化である。しかしそれだけではない。その暴力のために消えうせてゆくのは語だけでなく、概念も消滅する。なぜならば暴力的切断の結果、我々は概念の意味を確定する手段にも事欠き、語る際にも考える際にも「およそ、たいがい」という線で満足しなければならなくなり、そのため結局表現の力も思想の明瞭さも消滅するからである。・・・

 ドイツ語の文法上の簡素化により、表現の厳密性が損なわれる事を危惧しているのだが、これは、この後もっと根本的な問いとして「言葉」そのものの意味を(歴史を遡って)問う哲学を(間接的だろうが)予感させてくれる。
 そして、彼は、ドイツ語ではと限定しているが「日本語」でこのような事は起きていないだろうか、もしかすると、その前に「思想」自体が根絶やしになっていないだろうか?