聖なるものと<永遠回帰>(湯浅博雄著)
本書は、バタイユの「非-知」のような、とても普通の人間の能力では計り知れないもの、そういう「聖なる」経験について論稿を進めていく。
人間は、合理性を求めていく衝動を持つ反面に、それと全く対置する、非合理なもの、聖なるものを志向するという。それは、今ひとつ自分の理解としては乏しいが、均衡させるということのようだ。
そして、そのような体験は、いわゆる言葉で表せないものだが、それを、何とか表現しようとする事で、俗化してくる、それが、例えば、神話や宗教、そして王という統治制度といったものだとする。
禅などでも、その極意は言葉では、言い表せないというように、その体験は、人為的に作られた「ことば」の体系を超えるものであるという事を指し示すようだ。
そして、その言葉についても、例えば、ニュースのような、現実的な事件を、言葉=シンボルで伝えるという役割と共に、文学作品(小説、詩)などの様に、何か直接的に体験させるという役割もあると指摘している。
たしかに、優れた文学作品は、たとえ、それが虚構であるとわかっていても、感動を与えてくれる事がある。
そこには、言葉で思考する、人間という体系の中の、隠された要素、また、言葉自体の表現の限界や隙間があることが伺える。
それは、とりもなおさず、人間自体が、限りあるものである証拠なのかもしれない。
ヒトは「言葉で考える者」という認識を、今までしてきたが「言葉には隙間がある」という新たな問題(あくまで私的なことだが)が出てきた。
人間は、合理性を求めていく衝動を持つ反面に、それと全く対置する、非合理なもの、聖なるものを志向するという。それは、今ひとつ自分の理解としては乏しいが、均衡させるということのようだ。
そして、そのような体験は、いわゆる言葉で表せないものだが、それを、何とか表現しようとする事で、俗化してくる、それが、例えば、神話や宗教、そして王という統治制度といったものだとする。
禅などでも、その極意は言葉では、言い表せないというように、その体験は、人為的に作られた「ことば」の体系を超えるものであるという事を指し示すようだ。
そして、その言葉についても、例えば、ニュースのような、現実的な事件を、言葉=シンボルで伝えるという役割と共に、文学作品(小説、詩)などの様に、何か直接的に体験させるという役割もあると指摘している。
たしかに、優れた文学作品は、たとえ、それが虚構であるとわかっていても、感動を与えてくれる事がある。
そこには、言葉で思考する、人間という体系の中の、隠された要素、また、言葉自体の表現の限界や隙間があることが伺える。
それは、とりもなおさず、人間自体が、限りあるものである証拠なのかもしれない。
ヒトは「言葉で考える者」という認識を、今までしてきたが「言葉には隙間がある」という新たな問題(あくまで私的なことだが)が出てきた。