流れとよどみ(大森荘蔵著)
大森氏は、主客問題や時間問題について、独特の切口を持っている。
本書は、1981年の刊行だから、以前ここに取り上げた著作より、古い時期の思想になる。
細かいことを言えば、本書ではまだ時間が「流れる」事になっているが、段々と、時間が流れなくなっていくという変化が出てくる。
私も、碩学な諸氏のようには、説明できないが、時間は流れないのではないかと思っている。
時間は、後付けではないのか?
観念的に「過去というもの」を規定するために想定されたものではないのか?
と(漠然と)思っている。
たまたま、地球が自転しているから、時間のようなもの(観念)があり、同様に、太陽の回りを公転しているから、さらに、その概念が強化されたのではないだろうか?
まぁ、そんな「真夏の夜の夢を見ている」
そして、精神と身体を分離する、主客2元論についても、一元論(主客合一)を取って試論を試みている。
「哲学」が西洋のもの、文化であり、日本のような東洋の思考に馴染まないという考え方が確かに有ると思うが、逆に、デカルトに代表される「主客分離」の考え方を、大森氏も、それから「身体論」の市川浩氏も、飛び越えていく。
そこには、日本的な思想、思考というものがあるようで、それが、一種の面白さになっている。
ただし、そういう西洋の還元主義的な思考は、最終的に、簡潔なモデルを構築する可能性があるが、それと対抗する、東洋的考え方は、あまりにも複雑になり、観念的なところを脱出できない危惧もある。
しかし、人生はいずれにせよ短いのだ、自分の直観だけが便りかもしれないが、少しでも気のある方へ行くことにしよう。
そういう意味では、日本の哲学者、思想家には、興味を惹かれる人が結構いる。
本書は、1981年の刊行だから、以前ここに取り上げた著作より、古い時期の思想になる。
細かいことを言えば、本書ではまだ時間が「流れる」事になっているが、段々と、時間が流れなくなっていくという変化が出てくる。
私も、碩学な諸氏のようには、説明できないが、時間は流れないのではないかと思っている。
時間は、後付けではないのか?
観念的に「過去というもの」を規定するために想定されたものではないのか?
と(漠然と)思っている。
たまたま、地球が自転しているから、時間のようなもの(観念)があり、同様に、太陽の回りを公転しているから、さらに、その概念が強化されたのではないだろうか?
まぁ、そんな「真夏の夜の夢を見ている」
そして、精神と身体を分離する、主客2元論についても、一元論(主客合一)を取って試論を試みている。
「哲学」が西洋のもの、文化であり、日本のような東洋の思考に馴染まないという考え方が確かに有ると思うが、逆に、デカルトに代表される「主客分離」の考え方を、大森氏も、それから「身体論」の市川浩氏も、飛び越えていく。
そこには、日本的な思想、思考というものがあるようで、それが、一種の面白さになっている。
ただし、そういう西洋の還元主義的な思考は、最終的に、簡潔なモデルを構築する可能性があるが、それと対抗する、東洋的考え方は、あまりにも複雑になり、観念的なところを脱出できない危惧もある。
しかし、人生はいずれにせよ短いのだ、自分の直観だけが便りかもしれないが、少しでも気のある方へ行くことにしよう。
そういう意味では、日本の哲学者、思想家には、興味を惹かれる人が結構いる。