110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

時間の比較社会学(真木悠介著)

 本書は1981年に刊行されている。
 自分の思索の課題としている事が、既に、本書で整理された形で出版されていたことが、少し悔しいことだ、しかし、現代にニヒリズムを感じてしまうような事があれば、一読されるのも良いかもしれない。
 当然、解決はしないし、もしかすると、つまらない本と思うかもしれないが、それが、そのニヒリズムを脱する第一歩になるかもしれない。

 時間を考えるということは、死を考えることだ(現実的には生-死)、例えば、自分が永遠に生きているならば、時間は不要であることを考えれば、当然の事だと思う。
 そして、本質的に、私達は「現在」に生きているはずなのに、その「現在」に安住できないのではないかという問いかけが出てくる。
 その一つの表れが、過去の回想であり、昔のことが妙に美化されて思い出すということであり、その対抗としては、未来への期待がある、それも過度の期待という対応だ。
 そして、未来指向は現代のいたるところに見える、端的なのは、上場株式の市場価値だろうか。
 なんでも、先に伸ばして、それは今よりも良い状況になるという思考は、ある意味、近代的な時間概念というものによって生じたものだという(そうでないと、現代社会は維持できない)。
 そして、先に伸ばすということ、そして未来志向という事が表す先には「死」が待っているということを意味する。
 そして「ニヒリズム」へ・・・。
 「言葉遊び」と思われようが、このような、なにげない表現の中に、この様な帰結を導き出す。
 そして、現在に生きていられないということは、(ある意味)世界観が崩壊した、精神分裂症(確か、今は統合失調症でしたね?)の世界観へ肉薄して行くことになる。
 それでは、どうすれば、現在に生きられるのだろう?
 という新しい問いが出現するが、それを見付けるのが、次の課題となるだろう。
 そして、それは、今のところ、個別に見付ける必要があるようだ。

 そんなわけで、真木氏がこの後に、自我問題を扱った「自我の起源」を、早く「岩波現代文庫」で出して欲しいと思います。

 ちなみに、「現在」を生きられない人とは、子供のころ、夏休みが始まると、無限に時間が有ると思って日々だらだら暮らして、最後の一週間で宿題を汗かきながらやって、結局、新学期が始まって振り返ると、何も残らなかったという、私のようなひとを指すのでは無いでしょうか?