存在と時間(マルティン・ハイデッガー著)
名著といわれるものには何か言いえない理由があるのだろうか、冗談とも本気ともつかぬ気持ちの揺れから、今月はハイデッガーを読んでいる。
そして、氏の著作では最も有名だと思う本書を読む。
実は、その前に、比較的取り組みやすそうだと誤解して「形而上学入門」から読みはじめたが、いきなり「現存在」という術語が出てきて「意識」が飛んでしまったことがある。
その後、何冊か解説書など読んだが(木田元氏のものなど)、とにかく分厚い本書は「避けて」いた。
今回は、年貢の納めどきという感もある。
ところが、読んでみると、意外に面白い、また、基本になる考え方が丁寧に説明されている。
当然、一読で理解できる本では無いが、少なくとも「つまらない」本では無い。
人間が、「現存在」として、どういう風に「あれ(存在すれ)」ば良いのか?
現存在は、覚悟性をもって自らを投企することに、何かがあるのだが、それにはどうすれば良いのだろう?
そういう期待(希望)を持って読みつづけていく、そして、残念な事に、本書が未完で終わっていることに気づくことになる。
しかし、本書の中に流れているものには、何かを予感させてくれるものがある、一時の夢でしかないのかもしれないが、読書に熱中することになる。
ドイツでの刊行は1927年、そして、手元の翻訳版は1964年のもので、ドイツでの刊行から80年、この翻訳版からも40年以上経過している。
現在は、ハイデッガーの名前を聞くことも少なくなったが、逆に、本書が刊行された時点のように、社会の閉塞感を感じてしまった時に読むのには、良いのかも知れない。
ただ、そこには、未完であるということ、すなわち期待感もあるのだが。
そして、氏の著作では最も有名だと思う本書を読む。
実は、その前に、比較的取り組みやすそうだと誤解して「形而上学入門」から読みはじめたが、いきなり「現存在」という術語が出てきて「意識」が飛んでしまったことがある。
その後、何冊か解説書など読んだが(木田元氏のものなど)、とにかく分厚い本書は「避けて」いた。
今回は、年貢の納めどきという感もある。
ところが、読んでみると、意外に面白い、また、基本になる考え方が丁寧に説明されている。
当然、一読で理解できる本では無いが、少なくとも「つまらない」本では無い。
人間が、「現存在」として、どういう風に「あれ(存在すれ)」ば良いのか?
現存在は、覚悟性をもって自らを投企することに、何かがあるのだが、それにはどうすれば良いのだろう?
そういう期待(希望)を持って読みつづけていく、そして、残念な事に、本書が未完で終わっていることに気づくことになる。
しかし、本書の中に流れているものには、何かを予感させてくれるものがある、一時の夢でしかないのかもしれないが、読書に熱中することになる。
ドイツでの刊行は1927年、そして、手元の翻訳版は1964年のもので、ドイツでの刊行から80年、この翻訳版からも40年以上経過している。
現在は、ハイデッガーの名前を聞くことも少なくなったが、逆に、本書が刊行された時点のように、社会の閉塞感を感じてしまった時に読むのには、良いのかも知れない。
ただ、そこには、未完であるということ、すなわち期待感もあるのだが。