方丈記 全訳注(安良岡康作著)
最後に気づいた、この本は、「方丈記(鴨長明著)」では無い、安良岡氏による、その訳注なのだ。
だから、「方丈記」の本文を越えるページ数の、解説、注釈が有って当然なのだ。
これで「方丈記」と題名が付いていたら、原作に対する冒涜だ、しかし、あとで良く見るとこうなっていたので、いたしかたないと思った。
だから、「方丈記」の本文を越えるページ数の、解説、注釈が有って当然なのだ。
これで「方丈記」と題名が付いていたら、原作に対する冒涜だ、しかし、あとで良く見るとこうなっていたので、いたしかたないと思った。
それでも、わたしの読みたかったのは、純粋に「方丈記」とその現代語訳であった。
そこで、こんなところを発見した。
歩き始めた頃は、景色が良いなどという、(俗な)目的があったが、今は、歩くこと自体を楽しめるようになってきた、次は、交通機関をなるべく使わずに、歩くことを考えている。
そんなわけで、歩くことと、読むことの共通性について漠然と考えているのだ。
そこで、こんなところを発見した。
・・・もし、なすべき事あれば、即ち、己が身を使う。たゆからずしもあらねど、人を従へ、人を顧みるより安し。もし、歩くべき事あれば、自ら歩む。苦しといへども、馬・鞍、牛・車と心を悩ますには及かず。
わたしにとって、「歩く」ということに意味について、ある意味理想の状態が、この文章のようなことだ。歩き始めた頃は、景色が良いなどという、(俗な)目的があったが、今は、歩くこと自体を楽しめるようになってきた、次は、交通機関をなるべく使わずに、歩くことを考えている。
そんなわけで、歩くことと、読むことの共通性について漠然と考えているのだ。