110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

<近代の超克>論(廣松渉著)

 昭和17年に当時の知識人によって行われた、<近代の超克>座談会を、元に、当時の思想・哲学、特に、京都学派の思想について、廣松氏が検討。批判していくもの。
 刊行は1980年、オリジナルは「流動」誌に1974~75年に渡って連載されたもの、現在は、講談社学術文庫で読める。

 ある意味、戦争体制の最中で、戦勝気分があり、ご批判も有ると思うが、楽観的な議論が繰り広げられている様にも見える。逆に言えば、その当時の社会状況が、ある意味当然とは言え、思想に影響を与えている事は、否めないと思う。そして、それが、この様な、公開された場であれば、自分の本意と発言の間に微妙な、もしかすると、大きな、差異を生み出していたのかもしれない。
 ここでの、京都学派の思想は、いわゆる、西洋的な哲学を越えたところにある、日本的(東洋的)な哲学を構築する(した)という、大きな構想が見えてくる。
 しかし、この主張に対しては、あくまで抽象的な論理にすぎず、具体的な方策が見えてこないとして、この主張に対して疑問を呈している。
 また、結論としては、近代哲学の思考の枠組を越えられなかったのではないかと著している。
 
 本書を読んでいると、世界の国民がひとつになる理想郷が描かれているが、そのためには、対抗する勢力を武力で制圧するという論旨にいたってしまう。反イデオロギーイデオロギーになってしまうような矛盾を感じる。しかしながら、振り返ってみると、戦後は、奇跡的に戦争が日本で起こらなかっただけで、現在も戦争はなくなっていない。以前、「ポストモダン」という言葉で、いつ、それが実現したのかと疑問に思って、自分の調べられる範囲で調べて見たことがある。ちなみに、現在は「ポスト構造主義」とまで言われ、「モダニズム(近代化)」とは、思想的に大きく隔たったようにも思える。
 しかし、現在は、本当に「ポストモダン」という状況なのか、「近代の超克」のように、その言葉だけが独り歩きしてしまったのでは無いのか?
 本書の最後の方にこんなくだりがある。
 我が邦における往時の「近代の超克論」のアチーヴメントに関しては、今日の時点から"哲学的に"顧みるとき、誰しもそれが近代知の地平をシステマティックに踰越する所以のものであったとは認め難いであろう。しかし、東洋的無の解釈的再措定にせよ、西洋対東洋という二元論的構案を超えるべき世界史的統一の理念にせよ、はたまた、西洋中心的な一元的・単線的な世界史觀に対して複軸的な動態に即して世界史を捉え返そうとした意想、降っては、個人主義全体主義。唯心論対唯物論、模写説対構成説、等々の相補的二元主義となって現れる近代思想の平準そのものを克服しようと図った志向にせよ、往時における「近代の超克」論が対自化した論件とモチーフは今日にあっても依然として生きている。

 そんな、「思考の差戻し」を促されてしまった本である。
 そして、廣松氏の本は、多分私には難しいと思うが、今後も機会があれば読んでみたい。